アーレントとマックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら?

アーレントとマックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら、間違いなく「ウェブ進化論--本当の大変化はこれから始まる」の書評をブログに書いていただろう。この二人は「グーグル以降」の世界について、グーグルよりはる前に研究していた人である。

マックスヴェーバーは、「我々が巻きこまれているシステムについて客観的に語るにはどうしたらいいか」というテーマを研究した人である。その考察から生まれた教訓のひとつは、「認識論」と「価値論」の分離である。

つまり、「そのシステムがどのように作動するか?」という問いをいくら精緻化しても、「それを我々が選択すべきか否か?」という問いの答にはならないということである。

「グーグル以降の世界がどのように変化するか?」という問いは、「それを我々が選択すべきか否か?」にはつながらない。間違ってつなげてしまったら、新しいマルクス主義になってしまう。「おまえがいくらグズグズ言っても、世界はもう既に決定的にこちらへ向かって動いてるんだから、覚悟を決めて、40秒で支度しな!」ということだ。その背後に精緻な認識論があるので、こういう物言いがすごく説得力を持ってしまうのだ。

ウェブ進化論」は精緻な認識論である。「グーグル以降の世界がどのように変化するか?」という問いに見事に答えている。難を言えば、そこに不用意に価値論が紛れこんでいる。そのことが読者を選択してしまうかもしれない。しかし、紛れこんではいるけど混在はされていないので、認識論を抜き出して読みとるよう努力すれば、本来は、これはずっと幅広い読者にとって価値のある本である。

マックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら、そのように読者をガイドする書評をブログに書いていただろう。

アーレントは「人間がシェアできるものとは何か?」を徹底して研究した人である。その考察から生まれた教訓のひとつは、「公的領域」と「私的領域」の分離である。

つまり、「シェアできる物事の領域」と「シェアできない物事の領域」は、意図的に決然と分離しなければいけない。言論や芸術は世界に向けて公開し、シェアすることに意味がある領域で、セックスや愛はシェアしたくでもできなくて無理してシェアすると物事がおかしな方向に向いてしまう、そういう領域である。

グーグル以降の世界では、「シェアできる物事の領域」とその価値が極端に増大する。そして、アーレントが最も多く批判された「ビジネスは公的領域に属するのか?」という問いが、避けようもなくつきつけられてくる時代である。全ての善が公開されてシェアされてマッシュアップされて価値を生むというのは、ビジネスの究極の姿である。テクノロジーが公平さと多様性を担保する。この本に書いてあるように、「世界政府に必要なシステムを開発することが、グーグルに与えられたミッションだ」と素で創業者のラリー・ペイジは言う。

「心の中にあるものをシェアする」ということの意味と怖さを一生かけて考えたのがアーレントである。「シェアする」ということを20世紀には抽象的に哲学的に語るしか方法が無かったのだが、21世紀にはWeb2.0があって、シェアするということの意味がブラウザーの中にどんどん立ち表われてくる。

アーレントがもし1973年生まれだったら、ラリー・ペイジが「世界政府」と本気で言うのではなく、素でそう言ってしまうことの怖さを、誰より理解するだろう。「公開されてシェアできる世界政府」の批判をするとテクノロジーで反論される。その機能を実装されてしまうのだ。スペックに変換できない批判ができるのはおそらくアーレントだけだ。

アーレントがもし1973年生まれだったら、「ウェブ進化論」の描く「グーグル以降の世界」の意味を最も的確に解説する書評をブログに書いていただろう。

ところで、日本では、1973年生まれは打ちのめされた世代だそうだ。同じ年に生まれたラリー・ペイジはずいぶんノビノビやってるじゃないか日米はこうも違うのかと思っていたら、グーグルの株主の構成が特殊な手法になっていて創業者二人に絶対権限があって乗っ取りができないようになっているという話が「ウェブ進化論」にやや批判的に書かれていて、ああやはり海の向こうでも1973年生まれは Beaten Generation なんだろうと思った。ラリー・ペイジは叩かれることに備えている。ただ、備え方に無邪気で変に確信的な所があって、そういう妙な方法で自分を信頼してしまう所はホリエモンにそっくりだと思う。

確かに、この世代は、何かの皺寄せを受けているような気がする。だから、アーレントとマックスヴェーバーの21世紀バージョンを夢想するなら、当然のように、二人は1973年生まれになるのであった。