痛快!モヒカン族

週末は痛快!憲法学を読んですごした。

民主主義が劇薬であることがよくわかった。いまさらながらよくわかった。劇薬であるからよく効くのだけど、劇薬であるから取り扱いが難しい。

日本では、薬を出さない医者の評判が悪くて、毒にも薬にもならない薬を出さないと町医者はやっていけないので、毒にも薬にもならない薬がたくさん認可されていて、これを国際標準に合わせる為に、本当に効く薬を認可していったら、町医者が毒にも薬にもならない薬の調子で本当に効く薬を処方するもんで、本当に効く薬とは毒にも薬にもなる薬で、それをいいかげんに出せば毒になることが多くて、そういう事故が多くて厚生省がちょっと困っているという話をどこかで読んだのを思い出した。

民主主義は毒にも薬にもなる薬だからよく効く。ネットに危惧を感じる人は、使いようによっては毒になると言っているわけで、それは正しいと思う。毒にも薬にもならない民主主義モドキになれた人たちに、いきなりそういうものを認可してしまえば事故が多発するのも当然で、その危惧は当然で正しい危惧だと思うけど、毒にも薬にもなる薬は「毒にも薬にもなる薬」と言って与えるのが一番で、どうごまかしてもネットは毒にも薬にもなる薬だから、それを小手先でいじって毒にも薬にもならない薬にしたというのは欺瞞であって、毒にも薬にもなる薬を「毒にも薬にもならない薬」と言って売りつけるのは危ない。

実に危険が危ない。

ネットと民主主義が相性がいいのは、どちらも「言葉」のメディアだからだ。ガイジンは「言葉」の宗教を何千年も信仰していて、「言葉」の威力をよくわかっていて、民主主義と資本主義が「言葉」をベースにしていることもわかっている。

「言葉」が人を引っぱり回すのが、民主主義であって、だから民主主義は実に危険が危ない。

大正二年に、尾崎咢堂という人が議会で桂太郎を罵倒した。


時の首相、桂太郎といえば、その権勢たるや他に並ぶものなし。なにしろ、桂内閣の下、日本は日露戦争で大国ロシアに勝利を収め、韓国をも併合した。桂太郎は自分こそ日本を救った男であると思っている。

尾崎咢堂は演説一発で、弁論の力のみで桂内閣を総辞職に追いこみ、さらに桂太郎は悶死したと書いてある(「痛快!憲法学」p228)。


だから、このことを日本人はもっと誇りに思うべきではないでしょうか。つい半世紀前まで身分制があった日本が、誰からの力も借りずにここまで来た。これは今から考えても、恐るべきことと言わざるをえない。

俺だって、こんなに毎日好きなことを書いていたら、いつか誰かのツッコミで悶死してしまうかもしれない。それくらいの覚悟はあるさ。

言葉と金とどちらが根源的かと言うと、実は言葉です。小室先生によると資本主義はキリスト教(予定説)をベースにしていて、予定説という言葉の力がなければ金がたまらない。言葉で金は買えるけど、金で言葉は買えない。

買えない言葉を一番ためた奴が、世界で一番金持ちだ。

では、金で買えない言葉というものを、今、一番持っているのはどの企業か?そう考えて、それは「はてな」だろうなと思っていたら、otsuneさんからお誘いのメールが来て、モヒカン族というのに参加した。

何も世界で一番言葉持ちの企業に、これ以上言葉を与えることはないだろうと思ったが、見てみると、面白そうな人が面白そうなことをやっているので、仲間に混ぜてもらうことにしたのだ。俺は搾取されていると思う。俺が書く言葉がみんなはてなのサーバに残る。わかっていてもやってしまうことを、疎外とか下部構造と言うのだろうか?

言葉の力という危険が危ないものを、微妙に飼い馴らしながら、日本はここまで来た。誰も言葉の力を信じない国になった。この国で「リアルワールド」と言ったら、それは言葉を除く全てのことだ。言葉はバーチャルだとみんな思っている。政治家の力量を彼が使う言葉の力で測ったりはしない。企業価値を蓄積した言葉の量で測ったりはしない。

そういう国でモヒカン族は実に異端だ。モヒカン族は、言葉だけを信じる。言葉を発した奴を信じない。言葉原理主義者だ。

尾崎咢堂が桂内閣を倒したわけではなくて、尾崎咢堂の言葉が桂内閣を倒し桂太郎を殺した。物理的に命を奪った。モヒカン族第一号かもしれない。

唯一の可能性は、ネットにテキストを載せない技術を発明することだ。動画や音声は通るけどテキストが通らない技術を誰か発明しろ。それができなければ、テキストが市場を支配し政治を支配し日本を支配する。誰もがテキストに支配される。

モヒカン族の天下だ。