【やめて下さい!】学級会【いけないと思います!】

学級会が民主主義の原体験となり、西洋的知性というものが全てそこから理解されるようになる。

建前と違って、学級会で許容されるのは、特定の発言内容に限られる。学級会は、そのパターンを見つけて中身の無い発言を形式通りにして、担任の先生の評価を得る、それを競うゲームだ。

俺は「普遍性」という言葉を聞くと、脳裏にその先生の顔や、それを気にしつつ模範的な発言をする嫌な奴の顔が浮かぶ。

俺のクラスでは意見を求められて「わかりません」と言うと、「わかりませんではなくて、きちんと自分の意見を言いなさい」と注意された。だが、本当に自分の思うことを思う通りに言うと、たいていそれはそれで何か問題発言とされてしまう。

このアポリアをつきつけられて、「考え中です」と答えるという脱構築戦略を発明した奴がいた。「考え中です」は、先生によって否定されずに暗黙に正統な意見表明とみなされたので、誰もかれも「考え中です」と逃げるようになった。

俺が議長をしている時に、「○○君はどう思いますか」と聞いたら、叩きつけるように「考え中です」と言った奴がいる。「○○君はどう思いますか」と言う言葉が終わるか終わらないかのうちに、瞬間的に立ち上がって「考え中です」と彼は言った。

その驚異的なレスポンスの中に、特定の方法で意見を表明することを強制されることへの憎しみがあった。その憎しみは同時に、自分を指名した俺にも向けられているように見えて、俺は呆然とした。

数十年たって、ハーバーマスの「討議」という概念を、ルーマンがシステム理論的に解体したと聞いて、喜んでハーバーマス=ルーマン論争を読んだ。二人が何を言っているのかさっぱりわからなかった。どっちが勝ったかわからんし、それ以前に何が論点なのかわからんし、それ以前にこの本は解説以外1ページも理解できなかったが、くずれ落ちる前にルーマンが偉いに決まっていると決めつけて、俺は喜んだ。「討議」なんて言う奴にロクな奴はいない。きっとハーバーマスは、俺の担任の先生のようにいやらしい奴だ。それだけの理由で、何も理解できないままルーマンが俺の神になった。

俺の中で、「普遍的理性」は担任の先生の顔をしている。俺は先生の気にいるような言動をすることができて、学級委員になり、学級会での議長を命じられて、そのことで自動的に無反省に「普遍的理性」に迎合する者と見なされた。そして、叩きつけるように「考え中」ですと言われて傷ついた経験に、俺は今でも支配されていて、ルーマンアーレントを私怨で読んでいる。

学級会は子供にとって「私的領域」だ。アーレントは「私的領域」と似た意味で、「必然性」という言葉を使う。経済の中で、人は選択肢を奪われている。命令に従って稼いで生きのびるか、餓死するかだ。学級会では、先生の求める発言の形式に従ってあたりさわりの無いことを言うか、吊しあげられるかの選択肢しかない。正しく「必然性」に支配された「私的領域」だ。

ただ、これは皮肉にも教育としては正しくしかも効率的だ。子供たちは、この国の民主主義が「私的領域」に属していることを、学級会における経験から正しく理解する。日本人なら、九九やあいうえおに近いくらいの正答率で、このことを学んでいる。だから、自由な討議=人間性の回復の為に、公的領域としての2ちゃんねるに集っているのだ。

アテネのポリスと同様に2ちゃんねるにも欠陥がたくさんあって、アテネのポリスと同様たぶん長続きはしない。しかし、利害によって言動が一義的に決定されてしまう「私的領域」から逃れる為の、特別な場所を人為的にこしらえたことは同じだ。

アテネの回りの都市国家アテネの民主制のことを「便所のたわごと」とか言って、馬鹿にしていたに違いない。実際に、アテネ衆愚政治で混乱し、彼らがアテネを滅ぼしたのだから、彼らの方が正しい。だが、アテネは前例の無いものを作って、その理念は長い間西欧全体の伝統となったのであり、日本がそれをやっていかんというきまりはない。

ギリシャで生まれローマで育ち、ルネッサンス以降一段と強化された西欧の伝統は、遠いアジアの国で学級会というシステムとなって、多くの日本人に裏返しでその理念が植えつけられた。それによって、日本人は「公的な幸福」つまり利害から切り離されて討議する喜びを奪われ、2ちゃんねるによってそれを克服したのだ。そこには、西欧的普遍的理性の克服という世界史的に重要な要素があると思う。