「言説のフォーマット」という権力とそれにともなう責任

「記者ブログ炎上」というネーミングはよくないと思う。記者さんが口を塞がれたならこれは全然違う話で、私は人が言葉を発することを封じることには断固反対だ。

しかし、この事件では、記者さんは反論する場を奪わたわけではなくて、自発的にブログをおやめになっただけだ。「炎上」というネーミングには、その記者さんが言葉を発することに対する憎しみがこめられているとは思うけど、その憎しみは物理的な暴力でなく、あくまで言葉によって表現されたわけです。

言葉に言葉をぶつけて何が悪い?と私は思うのです。

コメントに何が書かれていようが、書いた人が「それを記者さんに読んでほしい」と思っている限りは、言論でしょう。

関係ないことを大量コピペするような行為があったなら、それは言論ではなく物理的暴力だと思う。もし、そういうことやクラッキングが主たる要因でブログがつぶされたら、それには、私は反対する。

「これを読んでくれ」という言葉をたくさん送ることは何も問題ない。それを相手に読ませたいと思ってしたなら全く問題ないことだ。もちろん、その中のどの言葉に答えるのかも記者さんの自由だ。その選択によって、暴かれてしまう「who」というものがあるとは思うけど、記者さんがブログをやめたことも非難しようとも思わない。

それが言論というものだと思う。

それに一定のフォーマットというか規制をかけて、「これがあるべき言論、これはダメな言論」とか「これが許される言論、これが許されない言論」と区分けするなら、その区分けによってはじきだされる言葉に思いをはせるべきである。

例えば、何か高学歴っぽい言い方じゃないと言論と呼べないと言うなら、低学歴の人は言論に参加できない。高学歴っぽい難しい言い方ができる人は、低学歴の人の言葉を代わって引き受けるべきだ。それができてないから、2ちゃんねるに厨房がはびこるわけで、高学歴の人は、そのことを真剣に受け止める義務があると思う。

憎しみにあふれた言葉しか出せない人には、それ相応の理由があるわけで、自分がそういうポジションに置かれてないのをいいことに、言論から憎しみを排除するなら、最終的には暴力を甘受するしかない。

罵詈雑言は民主主義の原点です。

それで過去の旧悪を暴くということには、確かに微妙な問題が含まれている。それによって、その人が言葉を発する機会を奪う可能性がある。「本名を出されたら会社をクビになるからブログ書けません」という人の本名を暴いたら、これは言説ではなくて暴力だ。

しかし、検索して見つけたことを言葉としてその人にぶつけたいなら、これは言論です。

記者ブログ炎上では、このへんに微妙な問題はあると思うけど、例えば、こんなケースを想定して考えてみる。

記者さんが、コメントスクラムに反論していた所、新聞社→プロバイダーで圧力がかかりその反論が削除されたとする。その場合、コメントスクラム軍団は「やった、奴の言葉を封じたぞ」と喜ぶかどうか?そうではないでしょう。やっぱり大半の人はその反論を読みたいと思うのではないだろうか?おそらく削除された反論はどこかにミラーされると思う。

結局、「奴に俺の言葉を読んでほしい。そして奴が何を言うのか俺は知りたい」と思っているなら、しっかり言論だと思います。

「では、おまえのいう言論は本当にルールなしのデスマッチなのか?」と問いつめられると、実は、私もちょっと弱気になってしまう。やはり、私的領域の中には暴くべきではないこともあると思う。

ただ、そこで言説のフォーマットに規制をするとしたら、やはり、何らかの責任が発生すると思うので、私はその責任を回避する為に、アレントを隠れ蓑にしているわけです。

「私的領域に踏みこんではいけない」と私が言って、誰かに「それによってはじき出される言葉に思いをはせよ」と反論されたら、「アレント100回嫁」で逃げる。そういう手が使える。

アレントのいうwhoとはそういうもんじゃねえよという意見もあるようですが、私には、アーレントの公的領域はもうほとんど金網デスマッチで、「公的領域」という金網の中では何でもありだと言っているように思える。その代わり、公的/私的の境の金網はデジタルで、中間領域なく峻別されている。

もちろん、これはまだアレントを三冊しか読んでない人間の言うことだから、あてにしてはいけない。ただ、アレントが言論に何らかの制限を課しているとしたら、その制限によってこぼれ落ちる言葉に対して何らかのオトシマエをつけていると思う。そこは今後の研究課題です。

アレントが使えないなら、しょうがないから自力で考えますけど、とにかく言説のフォーマット規制は権力であって、そこには常に責任が発生すると、私は言いたい。