みんなのために?自分のために?

私利私欲の強い人は、何か隠れ蓑を探します。日本では「みんなのため」という隠れ蓑が使い勝手がいいようです。悪い奴がすぐにこの言葉を使うので、「みんなのため」という言葉に不信感や恨みを持っている人が多い。公共性という概念が危機に陥っているのは、全世界的なトレンドでしょうが、日本独自のこの事情が、それをスピードアップしていると思います。

おそらく、欧米では一番ポピュラーな隠れ蓑が「神のため」なんだと思います。ですから、神、すなわち絶対的な価値というものが崩壊してポストモダンを加速した。公共性はダイレクトに攻撃を受けたわけではなく、「神が死んだ」の道づれになって死につつあるわけです。

日本では、「公共」という言葉の危機が「絶対」という言葉の危機より深刻で、欧米では、それが逆になっているのだと思います。

こういう問題意識で、(多少強引につなげている気もしますが)気になった文章をいくつか。

オープンソースは下町気質

ここで、ハッカー倫理とのつながりで下町気質と言われているものが、手垢のついてない「公共性」「みんなのために」のひとつの試みのような気がします。

「〜させていただく」の意外と深遠なルーツ

こちらでは、逆に隠れ蓑として悪用された「公共性」というものを、「〜させていただく」という言葉をキーに批判しているような気がします。

ネット・イデオロギー

これは、ストレートに「ハッカー倫理」を軸に少しでもましな「公共性」を再構築できないか、という提言です。

越境できない蜜蜂たち

これは、上の白田さんの文章よりかなり前に書かれたものですが、「ハッカー倫理」によって「公共性」を再構築する場合に、「利用者」でない受身の「消費者」という存在をどう位置づけるのか、という重要な問題を指摘しているものです。

なぜ「みんなのために?」が隠れ蓑として使いやすいかと言うと、「消費者」の数が圧倒的に「利用者」より多くて、「消費者」はコントロールしやすいからということがあります。

この問題を無視してしまうと、「公共性」でなくより使い勝手のいい「隠れ蓑」を再構築してしまうだけになってしまいます。とても難しい問題です。

(私はこれに対して、かなり説得力のない反論ですが、オープンソースに引きこもる蜜蜂というのを書いています。いちおう参考までに)