某氏のアレント要約

これはわかりやすい。

  1. 「who」が明るみに出るというのは正しい。が、それは実名、勤務先の公開というものではない。前者も後者もwhatであり、それは公共空間で問題にされるべきことがらではない。(ここはブログ主さんも認めているように思われる)
  2. 公的領域は、その空間を参加者が担い、維持していくものである。また、公的領域での人間はそれぞれが独自性(ユニークネス)を有した平等な存在として扱われねばならず、参加者相互の対称性が確保されてなければならない。言いっぱなしや複数の人格の使い分けを可能にする非対称的なカキコは許されない。ブログ主さんがおっしゃる通り、言論には責任が伴う。いちど公的領域に現れた人間は、その発言に責任を持たねばならない。
  3. whoが明らかにされるのは、公的領域というアゴラに集う人間たちの間のみである。それゆえ、本人が把握出来ないところでの他所に飛び火、あるいはロムのみ参加という状態はアレント的には許されないだろう。

「参加者相互の対称性」は、確かにアレントの重要な論点だと思います。この点から考えると、匿名コメントには公的領域への参加者として重要なポイントが欠けているというのは、そのとおりだと思います。

この点は、swan_slabさんが、ここ(の続き)で指摘していたことにも通じるような気がします。

う〜む。私はアレントを隠れ蓑にして主張しているので、これはちょっと言い訳できない。私の負けです。

その代わり、「アレンティアンでもなく」「アレントが手元にないのに急いで書いてくれた気配」でも、これだけのものがささっと書けてしまう「某氏のwho」を公的領域に引っぱり出せたからよしとしよう。それは単なる知識とか要約する国語力(=what)というものではなくて、ひとつの思索の深さ(=who)であると思います。