ネットにおけるマクロとミクロ

もともとは、id:gachapinfanさんの大前研一についてのこの記事について言及しようとして、アドレスの確認しているうちに自分のブログへのリンクを見つけて、それについて答えた所からどんどん横道にそれていくという、ちょっとしたシンクロニシティがあったのですが、それはともかく


「高名な企業人が、マクロ経済にかんしてビミョーな発言を繰り返す」というケースは多いようですね。ひと昔前のアメリカでもそれが問題になって、MBAコースのカリキュラムにマクロ経済学を入れる大学が増えてきた(言い換えれば、従来は教えられていなかった)、という話をどこかで読んだ記憶があります。

大前研一にあてはまるかどうかはわからないけど、経営者やコンサルタントがマクロ経済について語る場合に、自分の経験をアンラーニングすることは必要だと思う。ひとつの企業の経営(ミクロ)と、全体の経済の動き(マクロ)は全く別の話だ。

「インターネットは民主主義の敵か」はまだ読んでないが、こちらに内容の要約があって、これを見て感じたのが、「ミクロの論理でマクロを語ってないか?」ということ。

サイバーカスケードの中の人がバカだからネット全体もバカになる」というのは、一種の合成の誤謬ではないだろうか。特定の個人やサイトを観察して得られた知見(ミクロ)を、ネット全体(マクロ)に敷衍して適用してよいのだろうか。

直感的には、全く逆のことが起きているように思う。

サイバーカスケードに多様な人が参加してシンクロしていることで、外側から見た場合に、それを理解する為の多様な切り口が用意される。中の人がヒステリックな視野狭窄を起こしているほど、問題の輪郭がくっきりしてくることだってある。

むしろ、ネットによって埋もれていた分裂が可視化されているという側面があるのではないか。ラベリングの為のクリシェは、そのラベルを貼りつける先を認識しているから必要とされているわけで、本当に相互作用のない別のグループに分裂していたら、そんな言葉はいらない。

どんなに議論がすれ違っていても、とりあえず喧嘩しているということは相手を認識しているわけである。「デーリーミー」への傾斜は、誰もが感じるだろうが、それが意味しているのは、「自分には意味のわからないウザイものが、ネットをすることによって、前よりたくさん見えてきた」ということだ。自分の視野が狭かったらそんなものはいらない。

個々人が「おとなりアンテナ」くらいとしか相互作用しなくても、思わぬ所から思わぬリファが飛んできたりする。

もちろん、これはこれで私のミクロな知見である。サンスティーン氏にしたら「おまえの言うことの方がオオマエのレベル」だと言うのかもしれない。「オオマエ」というラベルの押しつけあいを裁定してくれる正統マクロネット学者はまだどこにもいない。