ハッキングは全ての闘争を消去するか?

[鏡] 辺境から戯れ言:続『ハッカー宣言』


ハッカー」は既に寿命を終えた「死んだ言葉」だと思う。ってなことを書くとハッカーな方々に怒られるかもしれないが,はっきりいってハッカー以外に「ハッカー」を正確に説明し理解できる人はいないと思う。「ハッカー」という言葉の定義はハッカーの内部で閉じている。故に「我こそはハッカー」と叫ぶ人を誰も止められない。かくて世界には様々に定義された「ハッカー」が乱立することになる。「ハッカー」という言葉は既に発散してしまったのだ。

ハッカー」という言葉が、一方でこのように発散して、一方で「悪いハッカー=ハッカー」という用法が定着しているのは、この言葉が間違って使われたからではない、というのが、『ハッカー宣言』のワークが主張していることだと私は理解しています。つまり、「ハッカー」という用語の発散と誤用は、ハッキングという行為の必然的な帰結であるということです。

その為に、ハッカーが自分たちを階級として認識し、その利害について考えることが困難になっている、ということがこの本のひとつのテーマだと思います。それについて、自分なりにまとめてみました。

自分の仕事がなくなるのは世の中が間違っている?

政治に興味を持つようになって最初に驚いたことは、「自分の仕事がなくなるのは世の中が間違っている」という考え方の人がいることでした。先日も、アスペクトアスベスト問題のテレビを見ていたら、世界的にこれが問題になった時、社会党がこれを国会で問題にする動きがあったという話をしていましたが、これは結局、社会党の内部に「アスペクトアスベストを規制すると仕事がなくなる」と騒いだ人がいて、尻すぼみになってしまったそうです。もちろん、他にもいろんな原因があったのでしょうが、「雇用を奪う」というアピールがあちら方面では非常に有効だったことをうかがわせます。

それで、私も昔はCOBOLプログラマーだったのですが、「UNIXとかパソコンとか使うとCOBOLプログラマーの雇用を奪うからけしからん」と言った人はいなかったのか?と思いました。

COBOLプログラマーというのは、単に古いプログラミング言語に習熟していた人ということではなくて、SEとプログラマーの分業が確立していた時代に、その枠組みに添って、自己の職能を形作った人です。だから、単に言語を切り替えればいいということではなくて、要求されるコミュニケーションの質が全然違ってきてその切り替えに苦労した人は多かったと思います。

外から見て、同じように端末に向かっているとしても、そこで行なわれている仕事の質は、工場労働者が営業マンになるくらいの変革でした。それをしないと、自分に仕事がなくなる人が何十万人といたのに、どうして労働組合は、これを主題化しなかったのでしょうか。

向こう側の事情はわかりませんが、プログラマーだった自分の実感から言えば、やはり、「自分はCOBOLしかできないから自分たちにCOBOLの仕事よこせ」と言うのは恥かしいことだ、カッコ悪いことだ、という気持ちがあると思います。いかに巧みに労働争議として位置づけようと、失業したCOBOLプログラマーが、左翼の運動家になる可能性は低かったでしょう。

階級を崩すことがハッキング

プログラマーの実感からは、マルキシズム的な階級闘争は生まれてきません。別の言い方をしてみましょう。

マイクロソフトは「OS開発販売業者」という産業を起こしました。もし、これに追随する会社がたくさんあって、たくさんの「OS開発販売業者」が各国に生まれたら、炭鉱労働とか工場労働と同じような、「OS開発労働」というカテゴリーの職種が確立して、それが職能別組合の有力な構成要素になっていたかもしれません。

しかし、OSというのはそんなにたくさんはいりません。

いくらマイクロソフトが暴利を貪ろうが、新しいOSを開発するより、言い値のライセンス料金を払って、コピーした方が安いのです。情報には希少性がなくて、ソフトウエアは実行可能ではあっても、あくまで情報です。デジタルでコピー可能な情報でしかありません。

別のOSに意味があるとしたら、Windowsとは違う、別の付加価値を持っている必要があります。実際に、MacOSは、iTMSiPodの橋渡しという別の付加価値によって、市場から評価されました。アップルは、「OS開発販売業者」であることをやめて、「オンライン音楽販売業者」として再生してはじめて、マイクロソフトと対等に競合することができるようになりました。

それでは、「OS開発販売業者」において産業別労組の組織化に失敗したから、今度は、「オンライン音楽販売業者」の労組に的を絞ればいいのかと言えば、やはり、「オンライン音楽販売業者」も産業として普及することはないでしょう。

もし、アップルの牙城を崩す会社が立ちあがるとしたら、それは、競争に別の付加価値を持ちこんでくる会社です。それ以外の会社は、よほどのニッチに特化した会社以外は、すぐに淘汰されるでしょう。

ソフトウエアという情報を扱っている限り、価値は、ハッキングによって生まれ、ハッキング以外のことからは生まれません。Windowsを見て、Windowsよりよい商用OSを作るのはハッキングではありません。商品でない商用OSを作ったり、ネットワークの向こう側でOSを作ったり、デバイスとネットをひとつのユーザ体験に統合することがハッキングです。

システムの完成とプロセスの完成

大きな価値はこのような大きなハッキングから生まれますが、普通のソフトウエア労働者が作る小さな価値も、やはり小さなハッキングから生まれます。アジャイル開発では、プログラマは、既存のプロセスと作ろうとしているシステムの不整合を見つけ、プロセスを改善していく人として定義されます。

ToDoリストから作業項目を取り出し、ドキュメントを参照しながらそれを実装し、疑問点を他のプログラマーに確認して、所定のユニットテストを実行して、本番系にチェックインして運用に流す。そういう一連のプロセスを、大半の作業者が快適に行なえるようになったら、プロセスは完成です。ToDoリストに項目が残っている限り、システムの完成とは言えないかもしれませんが、ToDoリストを消化するプロセスが問題なく進むようになったら、ソフトウエア開発プロセスは完成したと言えます。

そのような開発プロセスのお手本はたくさんありますが、特定の開発支援システムをインストールして、本に書いてあることをそのままやれば、プロセスが問題なく進むということはあり得ません。それを目的のシステムの特性や作業者のスキル等の環境に合わせてチューニングしていくことが、プロセスの改善です。最初はそこに多くの不整合があって、それを見つけて改善していくことが、システム開発です。不整合が無くなった時には、そのプロセスは自動化され、ほぼ無人でそのまま実行されます。それがプロセスの完成です。

プロセスが完成してしまうと、システムの改善の為の労力は激減します。すると、何人かのメンバーは仕事を失なってしまい、次の不整合を見つけるまで失業するか、自分の能力を100%発揮できないようなルーチンワークに甘んずることになります。

こういう業界では、「自分の仕事がなくなるのは世の中が間違っている」という発想は出てきません。「自分の仕事が無くなった時が、自分の仕事の完成である」と考えるからです。

ハッキングと階級

従って、マルキスト階級闘争を見る全く同じ所に、ソフトウエア労働者は仕事のネタを見つけてしまうのです。利害の対立から階級が発生するはじから、ソフトウエア労働者は対立をシステムによって消去していきます。

このマルキシズムとコンピュータソフトウエアの相性の悪さが、「ハッカー宣言」の一つのテーマだと思います。ハッカーというのは、階級として成立しにくい階級です。たとえば、「OS開発労働者」がハッカーであると世の中が思った時に、「OS開発販売業者」という枠を壊すのがハッカーです。

自己を定義する枠組みをはずして、新しい「抽象化」を世の中に生み出すのがハッキングです。生み出す価値がその都度違うものになるので、「ハッカー」という言葉の定義はそれぞれ違ってきてしまうわけです。


ハッカー階級の闘争とは、他の階級に対するのと同様にハッカー階級自身に対する闘争なのだ。ハッキングの自然=本性において、ハッキングはその先駆者として認められているハッキングを打ち負かさなければならない。ハッキングとは、ハッカーの視点においては、ただハッキングが明らかに質的な発展を遂げることにおいてのみ価値を持っているのだ。(「ハッカー宣言」[084])

それではハッカーにとって、階級闘争というのは本当に過去の遺物となったのか、「ハッカー宣言」は、そうではないと言います。


それぞれのハッカーはその他のハッカーをライバルあるいはさらに他のライバルに対する協力者として理解している。そしてそこでは、共有された利害をともなう同じ階級の同朋としてはいまだ理解されていない。この共有された利害というものを視角に捉えるのは大変難しい。というのも、それは質的な分化=差異化の中で共有される利害であるからだ。(「ハッカー宣言」[084]続き)

ハッカーは、常に自分の前にいるハッカーの仕事に対して「差異」を作り出します。つまり、違う価値観を持ちこんで、前の仕事を無効化するような方法を考え出します。

階級とは、同じ利害を持つ人のことで、普通に考えれば同じ種類の仕事をしていることから同じ利害を持つ人です。誰かと同じ仕事をする人をハッカーと呼ぶことはできないので、当然、ハッカーが階級を作ることはあり得ません。

ハッカーが自分たちを階級として定義しようとしたら、ハッカーの数だけ「ハッカーの定義」が生まれるでしょう。ハッカー階級というのは、ほとんど語義矛盾です。しかし、ハッキングに関わる利害というというものは存在します。その利害に気がつけば「ハッカー階級」というものが見えてくるということです。

ハッカーの利害

ハッカーの仕事の成果は、無人で実行されていくプログラム群です。それは情報ですから、希少性はありません。希少性は人為的に作りこむ必要があります。

希少性を人為的に作りこまない限り、それは商品として成立しません。ハッキングの成果を経済のシステムに取りこもうとする人たちが存在します。それが「ベクトル階級」です。

希少性がないという性質は、コンピュータソフトウエアにおいては純粋に現れますが、現代社会の多くの価値が、ソフトウエアほど純粋でなくても、大なり小なり同じ性質を持ちます。

たとえば、政策論議において必要なものは、政治経済に関する一般的な素養とデータです。そして、これを適切な方法で結びつける「論点」です。これらのものは、マスコミや知識人が独占していましたが、やはり情報ですから、適切なメディアがあれば、拡散して広まります。情報ですから、広まったものは回収できないし、組み合わせることでより大きな価値を生みます。

ネットにおいて、「論点」はほとんど一瞬で利害関係者全てに届きます。その結果、政治的な行動や発言は、多様な「論点」から評価を受けます。今は、10年前の政治評論家よりずっと進んだブロガーはたくさんいて、無償かつ少ない労力で、その「論点」をコピペして、10年前よりよほど進んだ床屋論議が行なわれています。

情報に希少性がないとはそういうことです。

ハッキングを抽象化、つまり情報化として定義すると、情報に希少性がないことから来る経済とのミスマッチは、全てのハッカーにとっての共通の利害となります。必ず、希少性を作りこむ人が存在するからです。

「多種多様な価値観に対して情報の所有を納得させる」という行為は、それ自体がひとつのハッキングですが、これによって経済のシステムとの整合性が得られることから、それを利用して情報を所有しようと思う人たちがベクトル階級です。

希少性に依存する経済のシステムをかなり根本的に変革しない限り、ハッカーとベクトル階級の利害対立は、常に存在しています。この利害対立に目を向けることができれば、ハッカーを階級として捉えることも容易になります。

いや、「多種多様な価値観に対して情報の所有を納得させる」という行為を、継続するハッキングとして捉える人がハッカーであり、これをハッキングの終点と考える人がベクトルなのかもしれません。

記識の外 - 「ハッカー宣言の誤解説」への返答。に見える、白田さんと金田さんの対立、ワークとレッシグの対立は、そこにあるような気がします。

ハッキングは全ての闘争を消去するか?

つまり、「ハッカー」という用語の意味が拡散することがハッカー階級の存在の証しであり、「ハッカー」という言葉が「クラッカー」「悪いハッカー」に転じていくことがベクトル階級の存在の証しであると、私は思います。

私にとっては、この問題は、全体的最適化=無痛システムに関する社会システム論的考察で論じたことにつながる問題であって、次の結論に至るものです。


システムは倫理的課題を解決しないし、倫理はシステム的課題を解決しないということだ。しかし、システムはシステム課題を解決することはできるし、それをやめるべきではない。ただし、その際に、その解決が倫理的課題をも解決したという幻想を持ってはいけない。幻想を持たずにシステム的解決を提示して、それが(ある人たちに)拒否されることによって、ひとつの倫理的な課題を明確化することができる。それがプログラマのすべきことだと思う。

つまり、本当のハッキングとは永遠に継続する「闘争」を明確化するものだと思います。