「冷たい怒り」の定義

jounoさんsleeperさんのコメントがヒントになって、「冷たい怒り」をもっと明確な言葉にすることができました。


「冷たい怒り」とは「同調圧力に対する反発に対する意識化されない反発」である。
日本のように同調圧力の強い社会では、この感情が社会的規範=同調圧力に対して適合的であるので、心的エネルギーが病的な水準まで高まっていても、行動の破綻が見られず顕在化しないことが問題である。
多くの場合、同調圧力に同化する形での微妙な攻撃性となる。この攻撃性に直面した場合、被害者は同調圧力からの直接的な攻撃と「冷たい怒り」からの間接的な攻撃を判別することが難しい。その為、被害者は適切な防御が取れず、被害者の自己破壊的な行動や反社会的な行動を引き起こしやすい。(essaによる「冷たい怒り」の定義)

「冷たい怒り」という用語は一般的すぎるかもしれませんが、被害者にとってこの感情を識別するのにこの言葉を使うのが一番よいと私は思っています。何か理由なくなんとなく嫌な気分になった時、「私は今日一日どこかで『冷たい怒り』を受けていないか」と自省することをきっかけにして、このような複雑な構造の問題に気がつきやすいのではないか、ということです。「冷たい怒り」は微妙で隠されているので、行動として目に見える部分だけを直接的に考えてもなかなか見えてきません。だから、ぶつけられた感情の感触をクオリア的に把握することが重要だと思うのです。もし、被害者の支援という観点でもっと適切な言葉があれば、それを使います。

これが重要だと思う理由は以下の4点です。

まず、今の日本で、大小問わず、さまざまな改革の阻害要因となっているのがこれではないかいうことです。集団的な「冷たい怒り」があったり、重要なポストについている人がこの感情に支配されていたりすると、改革を進める上で非常な困難になります。また、社会的に重要な地位に昇る過程の中には「冷たい怒り」を持ちやすい構造があるかもしれません。

次に、この感情が本人の問題行動とならずに、回りの人間の問題行動になる点です。親が「冷たい怒り」の持主だった場合、その子供に問題行動が現れるようなケースです。この場合、子供だけに着目しているのでは、その問題の真の原因が見えてきません。多くの場合、「冷たい怒り」の持主は社会的には普通以上に適合した人格ですから、それが見すごされてしまうケースが多いのではないかということです。

三点目は、学校の問題です。現在の最大の校内暴力は「冷たい怒り」による見えない暴力ではないかと思います。教室の中で子供たちは「冷たい怒り」をぶつけあっているのではないでしょうか。学校の中には、理由のわからない、構造を理解しにくい問題がたくさんありますが、この概念をキーにすれば見えてくるものがいくつかあるような気がします。

最後に、「冷たい怒り」が内在的に持つ問題です。一般的に、心の病的な問題は拡大再生産して破綻する傾向があります。例えば、アルコール依存症であれば、

 飲む→仕事クビ→ヤケになる→もっと飲む

というような正のフィードバックがあります。ですから、外部に現れる行動の破綻が病気の識別に使えるわけです。

しかし「冷たい怒り」では、「同調圧力に対する反発に対する反発」が自分にも向いてしまいます。それが「問題を顕在化する自分」に対する反発になって、常に問題を隠そうとする力になる。従って、社会的に許される範囲で微妙に攻撃性を発揮する方向に必然的に向うわけです。つまり、「冷たい怒り」は自分自身を洗練させる圧力を内在していて、その為に問題が隠されているのではないか、ということです。