コミュニティトラウマの再生産

はなわのSAGAがヒットしたのは、もちろん佐賀県の出身者、関係者の支持だけが理由ではありません。彼の故郷に対する複雑な思いに共感する人が多かったのだと思います。誰もが、自分の田舎に関して似たような思い、恥ずかしさと懐かしさがまじったような苦い思いを持っているのではないでしょうか。

つまり、出身県は47通りありますが、故郷に対する思いは全ての日本人が同様に持っているのです。出身地に対する感情はローカルなものではなく、日本の国内ではグローバルに統一されているわけです。むしろ、きれいに統一されていて商品化しやすいものである、と言えるかもしれません。

人によっては、そういう「故郷への思い」の共通項を強制してくる暗黙の圧力を感じて、それを圧迫に感じる人もいるでしょう。カテゴライズされてない自分独自の故郷観をそのまま披露することの危険性のようなものを感じているかもしれません。

私は「はなはの佐賀県への愛情」は、実はこのような観点から非常に緻密に生成されたフィクションではないかと疑っています。つまり、従来の「一般的な故郷への郷愁」とちょっとずれているけど、危険なほどはずれてない、そういうパっと見だけが新しい「ふるさと観」を創造して、それをベースにギャグをあてはめていった。自分の本来持っている故郷への感情と、規格化され共通化され流通している一般的なそれとのズレに悩んでいる人は、「SAGA」の中に両者のギャップを埋めるうまい落としどころを感じとって、それを受けいれたのではないでしょうか。

もし、「SAGA」が皮肉や憎悪によりすぎていたら、それが批判的なギャグとしてよくできていたとしても、規格化されている「ふるさとへの思い」とのズレが大きすぎて、その危険性の為に受けいれられない。逆に、「SAGA」がちょっとヒネってはいるが、単に故郷への愛情を裏返しに表現したものにすぎなかったら、これは安全ではあるけど、あまりにも自分のアンビバレントな感情と乖離しすぎていて、乗る気にはならない。ちょうど、両方の中間にあることで、自分の隠された感情を不十分ではあるが安全な形で表現するカタルシスの媒体となり得たわけです。

このギャップを見つけてうまく商品化したはなはのエンターティナーとしての才能は大したものだと思いますが、このギャップは実際にはそのようなお気楽にすませられるようなものではないと私は見ています。「ふるさと」というものが代表する「コミュニティ」というもの全般について、もっとハッキリした憎悪を持っている、ある種のトラウマ体験を持っている人もいます。そしてそのことが、コミュニティを作ることや人間関係を持つことの障害になっているケースも多いのではないでしょうか。

特に問題なのは、家庭内暴力で言われる「虐待の再生産」と同じようなことが起きているのではないかと推測されることです。家族から虐待を受けて育った人は、「虐待が愛情の裏返しである」という架空の信念を自分の心のささえとしてしまうケースがあるそうです。そして、同じ種類の暴力性を持った人をパートナーに選び再び自分が被害者なってしまう。あるいは、自分が子供に対して加害者として同じ虐待を「これは愛情だ」と自他ともに言い聞かせながら繰り返してしまうと言われています。

同様に、コミュニティ自体や、日本全国共通に存在する「コミュニティ」という幻想から虐待されて成長した人は、そういう暴力的な強制を行うコミュニティを自ら選択し、それを繰り返してしまうわけです。

この呪縛から逃れる為には、「自分がされたことは暴力であって愛情ではない」ということを自分自身がまず認める必要があります。自分と自分が属するコミュニティとの関係についても同様に、クリアに偽りなく自分の真の感情を認めないと生産的な関係を築きあげることはできません。

私は、「コミュニティ」や「人間関係」には否定でも肯定でもなく中立ですが、こういうものを肯定的に論じる人に「コミュニティトラウマの再生産」を感じることがよくあります。ですから、そういう言説には非常に懐疑的に接するようにしています。

これは二つの文章を読んで考えたことです。

私は、どちらにも賛成です(前者はちょっと難しくてわからない所もありますが)。もちろん反対意見もあると思いますが、この二つの文章に反論したい人は、それが「コミュニティトラウマの再生産」ではないのか?と自分自身に確認してから反論してほしいと思って、これを書きました。

「故郷」はバラバラなのに「故郷への思い」が統一されているって何かおかしい、帰属意識っていうものは、もっとバラバラであるのが自然ではないかと感じます。「コミュニティ」を再創造するとしたら、その「コミュニティ」が、バラバラな帰属意識を受容できるかどうかがポイントだと、私は思います。

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