処世術としてのポリティカルコレクトネス

上の記事は、「『勝ち組』倶楽部」の記事で提起されている問題を、いわゆるポリティカルコレクトな形に書き直したものです。文句を言われてしぶしぶ直したわけではなく、これはこれで最後の注釈も含めて私の本音(の半分)でもあります。

私は、これはやはり重要な指摘だと思いますので、差別用語の問題に立ち入らないでこれを話題にしたい方は、こちらのPC版(ポリティカルコレクト版)記事にリンクしてください。

これが完璧なものとは思いませんが、元の記事の重要な部分を抜き出してそれなりに問題ない表現にしていると思います。私はそれができるのにやらなかったわけです。あえて、それと反対の残りの半分を晒したわけで、それにいくつかの厳しい批判をいただきました。

なぜそうしなかったかを、jounoさんの批判に答える形で、自分自身で考えながら、書いみようと思います。

まず最初に、人によっては不快感を感じざる得ないこのような反則技のような文章に、正面から批判してくれた皆さまに感謝します。内容的には同意できない部分もありますが、とにかくまっとうな言葉で批判していただけることは、ありがたいことです。

jounoさんのコメント

どのコメントも考えさせるものでしたが、jounoさんのコメントは、非常に重要な文章で、読みやすい形で残す価値があると思いますので、(私も今後の教訓としたいので)ここに引用させていただきます。(以下は、jounoさんの文章です。段落分けはessa)


「ずるをして儲ける」と「マスコミに圧力がある」はまるで別の話だというのがひとつ、明白な誤謬の正反対も高い確率で誤謬でありうる
ということが二つ(ぼくはこのことを最近ますます痛感しています。
産経がいかにくだらない記事を書いても、それだからといって真逆のことを朝日が書いていたとしてそれがそれゆえに信用できるでしょうか。
むしろ、産経的右翼と朝日的左翼は無自覚な共犯関係にあるというべきです。)、そして一番大きいのは、元記事の程度が低すぎて、今回おっしゃっているような提議をなさるにしてもきわめて不適切だった、ということがあります。実際、わたしは既得権益について何度も書いてますとおっしゃっているのが、まさかマスコミ話のことだとは思いもよりませんでした。


また、総連や民団の組織としての問題は、組織の側の問題として論じるべきだと思います。元記事の、悪徳資産家のような低い価値付けが語に含まれている言葉と在日や被差別部落出身者のような中性的な語を並列するのは印象操作として悪質です。
マスコミに圧力が仮にあったとしても基本的には圧力団体としての総連(引用者注: 民団も含めて)の問題でしょう。


それと、起業において在日コリアンに特権があるかどうか、という問題をつなげてしまったのは、飛躍しすぎです。
自身で読み返してもその部分の記述の論理のつながりの弱さは明らかではないでしょうか。


オープンに議論するということは批判を受けいれるということにほかなりませんし、そこで自身の言を、そのような議論もあるということを知ってほしかったというような形で述べるのは、微妙に、ずるいんじゃないかと思います。
一例としてそういう意見もあっていい、とか、極端な事例として考えるきっかけにしてほしかったというのは、まず、どんな意見、どんな状況でもつかえるという点で万能すぎる弁明です。
つぎに、それをいってしまったら、自分の意見の内容について何でもいいことになってしまう、ということがあるからです。
(そう主張されているということではなく、その論法はそういうことを必然的に含意するということです)


結局、すくなくとも、あれだけ程度の低い元記事は生産的な議論の土台にはなりえないということ、そしてその引用から導いた推測があまりにもゆるすぎる連想によってしか支えられていないということではないでしょうか。


オープンな議論という意味で言えば、逆にああいう記述では、「不快です」とでもいうくらいしか具体的な突込みどころがないわけです。
なぜなら、元の主張が漠然とした既得権の漠然とした推測なわけで、推測であるにもせよ、反証可能な形で疑惑を提出なさっていれば、反論もできるわけです。
ていうか、やはり、儲ける云々という話とマスコミに圧力がある疑惑が云々という話は遠すぎて、反証責任以前に、立証責任がもう少し求められるのではないでしょうか。疑惑を抱くレベルの話の論拠としても、十分なものが提出されているとは思えないです。(マスコミのは話であれば疑惑を抱くレベルの論拠としては十分に述べておられるとは思いますが)

元記事には価値がないか

元記事は、二つの内容が混在しています。

  • 日本での資産家の意識と起業の少なさの関係
  • その資産家とは具体的にどういう層なのか

少なくとも前者については、非常に重要な指摘であり、私は他でこのことについて述べているのは見たことはありません。ですから、これについては取りあげる価値があると、私は思います。その部分については、上の記事でリライトしてみました。

また、前者だけ指摘して後者について触れないのでは、指摘の意味が半減します。ですから、これは両者が一体となって意味を持つものだと私は考えます。

問題は、その層を示すリスト、反社会的な職業や明白に犯罪者を示す言葉の羅列の中に、「ブラック民」「在日」という言葉が含まれていることです。これは、「ブラック民」「在日」= 反社会的存在、と暗黙に主張していると解釈し得る表現ですから、非常に問題のある表現だと思います。

それで、これが問題があるけど価値のある記事だったして、それに対する私の扱い方も問題のあるものだと思います。ただ、問題はあるけど、私にとっては必然的な要素があって、他に方法があったのだろうかと、今も考えていますが、答は見つかりません。「必然性」については、以下で述べます。

マスコミへの圧力と既得権との関係

一般論として考えるならば、マスコミへの圧力を見たら、その背後には不当な経済的な便益があるのでは?と疑うのはそれほど突飛な飛躍ではないと思います。

動機の面で言えば、隠したいことがあるので圧力をかける、また、手段の面で言えば、それだけの権力を持ってなければマスコミを動かすことはできない。

ですから、マスコミに圧力をかける人たちは、不当に既得権を持っているのではと思うのは、当然で自然なことです。

ただ、その疑いを表明するにあたっては、論理的な根拠と相当の配慮が必要です。私の場合は、それを欠いているとの批判は当たっていると思います。

また、Junnkyさんがおっしゃる「在日とは何か」ということを深く理解せずに、こういうことを言うのは適切でないと思います。ですから、対象を明確にしない批判は危険ですというshiragaさんの批判も、全くその通りだと思います。

問題意識といらだち

こういう複雑で意見の分かれる錯綜する問題について知りたいと思う時、私は次のような方法で自分の観点を整理します。

  1. ある問題について相反する意見(AとBとする)があった時
  2. AのB批判、BのA批判から論点とキーワードを抽出
  3. キーワードについて簡単に調べる
  4. Aの人、Bの人、中間の人、Aよりの人、Bよりの人というように、たくさんの立場の意見を集める
  5. 抽出した論点についてそれぞれの立場の意見を見る
  6. 自分のポジションを決める
  7. 自分のポジションに近い人の主張(論拠)を深く理解する
  8. それを別の立場の意見に照らしあわせて確認する

もちろん、これは図式的に整理したもので、実際には二次元的、三次元的に複数の座標軸がからみますので、ここまで単純にはいきませんが、基本的にはこういうスタイルでいろいろな問題に対処しています。ネットを使うようになってから、これがかなりうまく機能していると自分では感じています。

しかし、在日や韓国の問題(あるいは差別の問題や日本の現代史関連)については、これがうまく行きません。特に、2と4のステップに非常に困難を感じています。

  • 対立する意見があるのはいいけど議論が噛みあっていない
  • ポジションが連続的に分布してなくて空白域がある
  • 俯瞰するための、編集、整理された情報がない

そうすると私はとたんに馬鹿になっていまいます。

かなり一方的とも思えるような意見がどんどん頭の中に浸透してきて、幼稚とも思えるような偏見からなかなか脱することができません。そういう自分にいらだちがあります。「在日」をアンタッチャブルにしないためにはは、自分が暴論、極論を述べることで何かヒントが得られないかという希望とともに、そういういらだちが感情的に反映されています。

自爆テロ?責任回避?

まとめると、私の主張(弁解?)は

  • 自分の頭の中には悪い考えがあると思う
  • 悪い考えを排除したいが、そのための情報がない
  • だから悪い考えを悪いと知りつつそのまま書いた
  • 悪い考えも自分の一部であるので、それは自分の意見として責任は取る
  • 批判は受けいれ、なるべく答える(でも圧力はイヤ、圧力が来たら逃げる)

「悪い考え」とは「根拠の無い論理の飛躍を含んだ偏見」です。その点は、みなさんが批判される通りだと思います。しかし、それを書くことに一定の必然性があるように感じています。どうすべきであったかは、わかりません。

これを書いて気がついたのですが、これは小規模な自爆テロですね。自分の評判を落とすことを覚悟して、何かを訴えようとしているわけですから。

批判の対象と無関係な人を傷つけてしまう可能性が高い、ということも自爆テロと似ています。私が批判したいのは、言論の自由を侵害する人であって、たとえ、そこに在日韓国人の一部の人が含まれるとしても、「在日」という言葉を使ってそれを揶揄する形で批判したら、無関係の人を巻きこむようなことになります。

「圧倒的な非対称が自爆テロを生む」と言った、中沢新一さんの言葉を思い出します。新聞が偏向報道をしたり、NGワードが商業出版から機械的に排除されていくような、この問題に関する状況に、私は「圧倒的非対称」を感じつつあるのだと思います。

それで、元の記事NGワードを含めてそのまま引用した理由としては、(これは誤読、勝手読みかもしれませんが)あえてNGワードを含めたてんこもり野郎さんに「圧倒的非対称」への抗議の意図を感じて、それに共感したということもできます。

「万能すぎる弁明」というjounoさんの忠告は心にしみ入りますが、私の怒り、言論の自由に対する侵害に対する怒りはあまりに強いので、これからも(形を変えて)こういうことを繰り返すかもしれません。

処世術としてのポリティカル・コレクトネスが広まることはいいことなのか?

自爆テロ」はあまりにも極端な方法ですが、反対側の極端として「処世術としてのポリティカル・コレクトネス」があります。つまり、上のPC版の記事のように、この問題に立ち入らないようにするということです。

たとえ心の中に私と同様の偏見を持っていたとしても、その疑いは封印して、なるべくそれには触れない、どうしても触れる場合には、「ポリティカルコレクト」に無難な対応をする。日本では、それが処世術の一部となっていると思います。

私も場合によっては、そういう対応をするでしょう。例えば、商業的な媒体に文章を書くとしたら、言われる前からそういう配慮をして、しっかり編集者のチェックを受けて、自分の気づかない問題があれば素直に全て言われた通りに直します。

しかし、自分のブログではなるべくそういうことはしたくありません。

もしかしたら、その処世術が浸透している為に、この問題に関する意見はバラツキがなくて、ポジションの空白域があるのかもしれません。匿名の議論は処世術の反対に偏りがちで、「嘘の逆が本当とは限らない」とjounoさんがおっしゃるように、自然に真実にたどりつくために必要なブレ、振幅がありません。私は2ちゃんねるの意義をかなり重く見る方ですが、この問題に限っては匿名掲示板も、処世術の縛りを中和する機能は果たせないような気がします。

ただし、そこに表現されている、「処世術」に対する無意識の反感は重大な問題で、きっかけさえあれば、それがもっと不幸な形で吹き出すことは十分あり得ることです。自分のことを棚に上げて言うことになりますが、そこにも私は危機感を感じています。

必要なのは、「処世術」でもなく「自爆テロ」でもなく、もっとたくさんの自由な言葉だと思います。