タブーを巡る強者と弱者
口にできないこと ---What You Can't Say--を読んで、構図と問題点が明確に見えてきました。
タブーをつくり出す集団は、弱さと権力の中間で危うく揺れている。 自信のある集団は、自分を守るためのタブーを必要としない。 アメリカ人やイギリス人をけなす発言をしても、不適切だとは思われないだろう。 一方で、集団はタブーを強制するに足る力を持っている必要がある。 この原稿を書いている時点では、汚物愛好者はその嗜好をライフスタイルとして 社会に受け入れさせる程の勢力はまだ無いようだ。
おそらく、道徳的なタブーの最大の源は、勢力のぶつかりあいにおいて 一方がかろうじて他方の上手を取っているだけ、といった場合なのではないかと思う。 そこには、タブーを強制するだけの力を持ち、かつそれを必要とするほど弱い、という 集団がある
そして、「タブーを強制するだけの力を持つ」強者と、「タブーを必要とする」弱者が、完全に一致してないことから次のような問題が発生してきます。
- 強者が自分のパワーの正当化の為に弱者を口実として利用する
- タブーへの反感は強者へ向かうべきだが、弱者に向かう(ように強者がしむける)
- 強者がタブーを不正利用したことの反感が弱者に向かう
- 弱者を保護する必要が強まりタブーが強化される
- 強者にとってのタブーの利用価値が高まる
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ですから、「タブーに関わる問題を論じる時には、批判の対象を明確に限定する必要がある」ということが重要になるわけです。
タブーを不当に自己の利益に利用する強者は、意図的に自分と弱者を混同させ、弱者が攻撃の的となりタブーが存続されることを求めるわけです。不用意な強者と弱者の混同は、その強者を利することになります。重なる部分があるとしても、批判しているポイントを明確にしないと問題の解決にはつながりません。
とても重要な文章を翻訳し紹介してくれたshiroさんに感謝します。