法治国家とは感情を煮つめて憲法にした国である

北沢かえるの働けば自由になる日記から


犯罪防止ってより、罰としてそいつの犯した罪が消えない形になるってのが魅力。正直な気持ちで書けば、この手の犯罪者は、一生後ろ指指されていろ、てめえのしたことは死刑以上だ。

これはよくわかる。ミーガン法の第一条総則として、こういうことが正直に書いてあったら、賛成するかもしれない。

ただ、北沢さんの怒りは、性犯罪者の向こうに透けて見える何かに向かっているような気がする。


そういうのはなんだが、今住んでいる社会の一般的な性や人権に関する感覚がこんな程度じゃさ、反省もしないだろ。セクハラにしても“なんで冗談が苦痛なの?”っていう感じが本音でしょ。社会を窮屈にしたいわけじゃあないが、相手に対しての想像力の欠如も、ちょっといい加減にしてくれよと、被害者&被害者になりかねない側は呆れているのだ。


親の目で見ると“理解しがたい極端な性的嗜好”というよりは“思い通りになりやすい弱者を性的な対象にする”ってのを気にしちゃうんだけどな。誰でもやれる相手ならいいのかってのと、実は違うようで似ているってのは、また別な話。


話がずれちゃったけど、なんだろう、性犯罪は、社会の価値観に根ざした複合的な構造犯罪ってことかな〜。

だから、性犯罪者は自身が代表しているものの代わりに罰せられることになるのかもしれない。それは感情論だけど、とても大事な感情論だ。こういう感情を形にしてまとめて法案にするのが政治家の仕事だと思う。

この感情をそのまま法律にしてはいけないのかもしれないけれど、こういう感情と全く関係ない所に憲法や刑法があるのがおかしいのだ。ガイジンの法律とガイジンの感情とは、いりくんではいるけどひとつの道筋で結ばれている。もしそれが切れてしまったら、プロの法曹関係者は感情論を笑いものにしたりしないで、それをつなぎ直そうと必死で努力する。

北沢さんが言っているのは、「女性の感情と法律が切れてしまっている」ということではないかと思う。それは全然放置していい問題ではない。日本はガイジンの法制度を輸入したから、法律と感情が切れていることを当然と思ってしまうが、法治国家とは感情を煮つめて憲法にした国である。煮汁が残ってないのでドライに思えてしまうが、実は法律には愛憎のエッセンスがこもっているのであって、そうでもなければ、誰も言うこと聞かないよ、きっと。