「援助」と「断罪」の技術

EP end-point: ひきこもり vs 価値観で、


しかし私がそうした批判に与/くみ/しないのは、まず第一に、価値判断は精神科医の仕事ではないという理由からです。つまり、われわれは他人様/ひとさま/に「いかに生きるべきか」などと説く立場ではありません。

という斉藤氏の言葉を引用されています。これを受けた雨崎氏の言葉に全く同感です。


自分の価値観で「それは危ない」「それはおかしい」「それは間違っている」と思って「救う」行為をなすのであれば、それは相手を救っているのではなく自分を救っているに過ぎない。パターナリズム、よけいなお世話。やるなら「自分のためだが」と腹をくくってやれ。

これと似たような違和感を感じるのが、麻原彰晃への判決文です。


凶悪かつ重大な一連の犯罪は.....自分が神仏にも等しい絶対的な存在であると空想を膨らませ、勢力の拡大を図り、救済の名の下に日本を支配しようと考えた、松本の悪質極まりない空想虚言がもたらしたものだ。松本の自己を顕示し人を支配しようとする欲望の極度の発現の結果であり.....

裁判所は価値判断するべき所ですから、価値判断に立ち入って非難するのはいいんですが、なにかズレを感じます。こういうのは一種の枕詞みたいな形式なのかと思ってたんですが、朝生で検察OBの人が出てきて、こういうことを本気で言ったのに驚きました。(ああいう場に慣れてなくて思うように発言できなかったですが、こういうことを言いたがってたように私には見えました)。

「空想」「欲望」「支配」「虚言」「自己顕示」。これらの言葉は、麻原を断罪するには弱くて単純すぎると思います。麻原が悪だとするならば、彼の悪はこのような通俗的な言葉では断罪できない深いものであるし、オウムが世の中からずれていてそれを非難しているとしたら、その断絶について認識が不足していると思います。

こういう言葉でしか裁けないのなら、検察はもっと外形的に断罪すべきでしょう。「彼が命令して弟子がサリンをまいた。動機は不明。証拠はこれこれ。よって責任者は死刑」これ以上のことを言わない方がいいと思います。

ひきこもりの問題も麻原裁判の問題も、倫理やべき論の問題であると同時に、実効性の問題でもあります。価値判断の領域におけるギャップをしっかり認識していないと、引きこもりは直せないし、オウムは取り締まれない。そこに立ち入るなとは言わないけど、それは相当な覚悟がいることだと思います。

取締りは直接的には司法の仕事ではありませんが、裁判というのは何が起こったのか明かにして、今後どうしたらいいか考える為の基礎データを残すという意味もあるはずです。そういう意味では、あの判決は落第点だと思います。「人を支配しようとする欲望」を持って「悪質極まりない空想虚言」をする者を取り締まれば、こういうことはなくなるのでしょうか。

死刑判決の中の「断罪」を書く為には、犯罪者のレベルにつりあうだけの人間観を持つ必要があります。そうでないと負けてしまう。あの判決文は麻原の沈黙に負けています。「断罪」になってない。すべってる。

「援助」と「断罪」は同じエンジンで駆動するものです。ギアを前に入れれば「援助」、バックに切り換えれば「断罪」です。荷物が重ければどちらにせよ、これまで以上のパワーが必要です。そして、我々の荷物はすごく重いんです。パワーが不足しているなら、うかつに手を出すなと私は言いたい。

(関連記事: [好奇心/善意]の[利点/リスク]動機)