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もし地震を止める技術が開発されて、これがヘタに運用されたら、プレートとプレートの歪みが蓄積されて制御不能なとんでもない大地震を発生させてしまうだろう。トンデモ犯罪を考える上で、これと同じような力学的な観点が必要だと思う。俺が思うに歪みが蓄積されやすい世代ってものがあって、神戸とバスジャックと豊川の事件の年代がこれにあたる。どの事件でも、同年代の子供たちが「犯人に共感できる部分がある」と言っていた。もうちょっと踏みこんで聞き出せば、「彼がやったおかげで僕はやらなくてすんだ」という発言を引き出せるかもしれない。

もうひとつの危険地帯が浩宮(60年生まれ)ととんねるず(64年生まれ)の間あたりにあって、砒素カレーと音羽のお受験殺人と今回の児童連続殺人がここに入る。どれも、仮に殺して逃げおおせたとしたら犯人に何か嬉しいことがあるろうか?という疑問がわく事件だ。この世代はすでにビビッドな感性を失なっているので、「犯人に共感」などとはなかなか言わない。実は、俺も浩宮と同い年でこの危険地帯に入っているのだが、さすがに「共感」という言葉は使えない。ただ「自分の心の中には犯人と共通する闇がある」くらいなら言ってもいいかなと思う。

「闇がある」というのは、これを自分の心の中から異物として排除したいという強烈な衝動がわくということだ。「何故こういうキチガイを放置しとくんじゃあ」というヒステリックな意見は犯人を異物としてラベリングしたいという欲求から出てくる。どれだけ人がこれを排除したがってるか知りたければ、キチガイがからまない同程度に悲惨で突発的な事件を想像してみればよい。

例えば、タンクローリーが横転してそこにスクールバスが突っこんで大爆発して死者数十名という事件だったらどうだ。タンクローリーの内容物やら積載量やらが基準を満たしていたか、その基準は適正なものなのか、適正な基準で運用されているのに事故が起きたのは偶然の要素があるのか。こういう専門家の分析が繰り返し報道されるだろう。「タンクローリーは公道を走るな」とか過激な意見は「・・・という意見もあります」というやや冷笑的なかたちで紹介されるに留まる。子供たちを爆死させたタンクローリーとそのへんを走っているタンクローリーが違うものだという当然の認識が先に立つからだ。

しかし、現実に起きたこの事件では、どいつもこいつも因果関係の分析より先に何らかの対策をたてたがる。なぜかそのへんにいるキチガイは学校に乱入したキチガイと同一視される。全ての学校に警備員を置くより、その予算で交通事故の対策でもした方がより多くの子供の命を救える。こんな意見を言ったら袋叩きだ。だけど実際には交通事故で死んでる子供の方がずっと多いんだよ。なんかおかしくないか?結局、理解不能な犯罪を起こす奴は「キチガイ」とラベリングして安心したいのだ。

ある専門家が今回の事件の犯人について「これまで多くのトラブルを起こしているが、その中に精神障害の徴候はほとんどない」と言っていた。俺も奴はキチガイではないと思う。別の専門家は「人格障害」と言っていた。「人格障害」ってのは、便利な逃げ口上であって「これは私が学校で直し方を教えてもらったキチガイとは明かに違うんだけど、それを正直に言うとあたりさわりがあるのでゴマかしておきます」という意味なのだ。

地震の原因が震源地でなくて断層の歪みであるように、あの犯人のことをいくら調べても原因はわからないだろう。そして、プレートとプレートのズレがある限り、歪みが蓄積されどこかでそれが解放されなくてはならない。解放を止めようとすれば、より多くの歪みが蓄積されさらに大きな事件が起こる。「大きな」というのは死人の数ではなくて(それもあるかもしれないが)、「理解不能度」「トンデモ度」がアップするということだ。

必要なことは、断層に蓄積しているエネルギーをできるだけ広い範囲で分散させて解放することだ。それは具体的に何なのだと言われたら、「犯人が表現した闇、そして自分の心の中にもある闇を正直に見つめることだ」と言うしかない。こういうあいまいな言葉の使い方は嫌いなんだけどね。