片山被告の独善性の謎

私は、遠隔操作ウイルス事件で起訴されていた片山被告が犯行を認める前の5/17時点で、クラッキングでは敵の力の見極めが重要というエントリを書き、「片山氏は犯人ではない」と主張しました。

その後、本人が弁護士に告白した内容が報道され、片山氏が一連の犯行を認めたことは間違いないようです。そこで、自分がどういうふうに間違えたのかについて書いてみます。

私が、「彼は犯人ではない」と思ったきっかけは、彼が真犯人をよそおって書いたメールを読んだことです。それまでは、「よくわからんけど違うような気がするな」という程度の感覚だったのですが、これを読んで強く違うと感じました。

どこでそう思ったかと言えば、「iesysの正体」の説明です。これが、検察の立証の意図をきちんと理解した上で、判明している事実と整合性のあるストーリーになっていたことです。私は、C#については詳しくないのですが、ブログやtwitterで経験のある人が何人か「なるほど」と言っているのを見ました。技術的にも一応の整合性はあるようです。

それまでは、なんとなく犯人像として独善的で独りよがりな人物を想像していたのですが、この部分には独善性が見られなかったことに強く印象を受けました。

一方的に、自分に都合がいいストーリーを主張するのではなく、検察の立証に対して「あなたはこう言うけど、私はそれについてはこう反論する」という形で答えています。つまり、このメールを書いた人物は、自分と敵対的な立場の人(検察)と、きちんと言葉のキャッチボールができる人であるということです。

この「自他の違いをきちんと意識できる人間」という印象が、それまで漠然と見ていた片山氏の印象(特に彼が以前起こした犯罪の独善性)と正反対なので、「これはやっぱり冤罪なのではないか?」と思いました。

彼は、警察と検察を愚弄した上で保釈されていている身分です。そういう自他の違い、相手の立場や主張を理解できる人間であれば、今の時点で偽装メールを出すという危険は当然認識できるだろうと考えました。

もし、この状況でああいうメールを出すような人間であれば、その内容ももっと独善的で主張の中に技術的、論理的な穴があるはずだと思ったのです。

そこで、2chtwitterを見てみると、C#のスキルが問題になっていて、それについて0か1かの単純な議論になっているのが目につきました。踏み台プログラムやワームのようなプログラムを書くためには、単純な言語の知識ではなくて、「そのプログラムがどういう状況で動作して、ユーザがそれにどう反応するか」についての想像力が必要です。これも独善的な人物には難しいことです。そこで、そのスキルの相対比較という問題に焦点を合てたエントリを書き、以下のように主張しました。


(彼のプログラマとしての能力が)標準以下で、誇大妄想的な自身過剰であったらやるかもしれないが、それではすぐに尻尾をつかまれるので、ここまで事態を長引かせることはとても不可能だ。

事態が長引いたのは、捜査当局の失態でもありますが、ひとつの要因としては、片山被告には自分と違う立場の人間の考えることを想像しシミュレートする能力があり、それによって技術的な知識をうまく活用していたからではないかと想像します。

もちろん、それが群を抜いて優れたものであるとは思いませんが、犯行そのものや多くの人を騙し続けたことに見られる独善性とのコントラストが不可解です。

一人の人間の中に、このような共感能力と独善性が同居していることがあるというのは、人間とは本当にわからないものだと思います。