M・タクマ氏の犯罪

ある朝、俺が会社に着くと、俺の机に見知らぬ男が座っている。そいつは当然のように電話に出たり部下に指示したりしている。誰もそれを不思議と思わないのが不思議だが、どうもここではそいつが俺と認識されているらしい。俺はあわてて逃げ出して、いろいろ調べてやっとのことでその男の正体を見破った。そいつは、なんと俺の「名刺」だった。これはやっかいな奴が相手だ。なんてったって奴は「名刺」であるだけに、俺の肩書きは奴の手の内にある。肩書きをはずされてしまった俺は、俺が俺であると主張できる根拠を何もちあわせていない。逆にあいつの方が、俺の人間関係を全て握っている。俺の回りの人間は誰もが、俺でなく俺の肩書きと関係を結んでいたからだ。

これは、安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」(のリライト)だ。中学生の時に、これを読んで「なんてくだらねえ小説だ」と思った。当時は当然そんな言葉はないが、まさにこれこそ厨房である。例の容疑者についての詳しい報道を聞くまで、俺にはこれの価値が認識できなかった。

奴は社長の名刺と医者の名刺を作って、お見合いパーティでナンパしていたそうだ。人がどれだけ人間でなく肩書きを相手にしているのか気がついた時、安部公房は物語を作り、宅間守は名刺を作る。どちらも多くの人間の深層心理を特殊な方法で蒸留するタイプの人間であるらしい。

強盗が金を得ようとする手段を人は非難するが、その動機を非難できない。同じ動機を持ちあわせているし、それを自分で認識しているからだ。そして、その目標に向かって別の形で邁進しているからだ。宅間は社長の名刺と医者の名刺を同じ名刺屋で同時に作った。安直に肩書きを得ようとするその行為について、誰もがそのあさはかな手段をあざわらうだろうが、その動機についてはどう思うのだろうか。

俺は社長と医者に同時になろうとする自分を想像することはできない。だから、2枚同時というとこだけは笑いものにする資格があるだろう。だが、出世欲や名声欲も多少は落としてきたつもりだが、落とそうとすることの難しさを通して、いかにそういうものがたくさん自分の中に詰まっているかよくわかっている。だから、名刺を作ることの動機の方は簡単には笑えない。

物事を安直に得ようとするその性向が、ひとつの破滅に向かって彼の人生をドライブした。だとしたら、数十人の子供を刃物で傷つけるという破滅の最終局面において、ピークを迎えたのは彼の残虐性でなくてやはり彼の安直さと思わなくてはいけない。肩書きを得ようとする誰もが持ち合わせている動機を、宅間の安直さで得ようとすると二枚の名刺になる。それでは8人の子供の命を奪うという許しがたい行為によって、彼は何を安直に破壊させようとしたのだろうか。

宅間の狂気や妄想だけがひとり歩きしてその動機を生み出したと思うことはそれこそ安直である。彼が俺たちの欲望の中から二枚の名刺を抽出して見せたように、やはりあの行為も俺たちの心の中にある何かを反映していると考えざるを得ない。