トクモリ、ツユダク、ハイリマス

「いかがですか」という美しい日本語を、「ご一緒にポテト等いかがですか」というセンテンスの中でしか口にしたことがない、あるいは、耳にしたことがない若者が相当数いる。このまま行くと、「いかがですか」という言葉にネガティブな印象を持つ人が増えて来る。あるいは、バイトに「いかがですか」という日本語を習得させるためのコストがばかにならなくなる。いつか、マニュアルが書きかえられる日が来るだろう。代わる言葉が「どうですか」になるのか、我々がまだ聞いたこともない珍妙な言葉になるのか、それはわからない。どちらにせよ、切替の時期と用語の選択でマクドナルドは難しい判断を迫られる時が来るだろう。

「特盛、つゆだく、入ります」という奇妙な言葉使いには俺は相当な違和感がある。つゆだくはまあいい。新語なのかそうでないのか知らないが、語感が和風であって意味も直感的によくわかる。問題なのは「入ります」という言い方で、「いったい誰がどこへ何のために入るのだ」とからみたくなってくる。まさか俺の口の中に牛丼が入ることを宣言しているのではないだろう。それは注文した直後に発声される言葉であり、「口に入る」という事象はまだはるか未来のことだ。まだそのフェーズに到達していない。それでは入るのは何なのか、熟考を重ね、ようやく「注文」ではないかという仮説を得た。「注文」だとしたら逆に「入りました」になるべきではないかという疑念が残るのだが。

疑問と微妙な反感はあるのだが「特盛、つゆだく、入ります」という言葉が、機能的であることは俺も認める。当然、意味は明解であるし何より威勢がいい。習得に困難もない。俺には適当な代替案は思いつかない。

この機能性と曖昧さを保ったまま、この言葉を英語に訳すことはおそらく不可能だろう。「鬱氏」とか「串」「鯖」のたぐいや「漏れ」なども、同様に機能性と同時に微妙なニュアンスを保持している。サービス産業と2ちゃんねるで、何故そういう不思議な日本語が生まれるかと言うと、どちらも機能性と文化が衝突する場であるからだ。相反する要求に締めあげられて、日本語の潜在能力が発掘されているのだ。リミット技とかトランスとかスーパーサイヤ人とかと同様の現象が発生しているのである。

これと比較すると、銀行の幹部や官僚の使う言葉はいかにもだらしない。「経営判断が甘かったと言われるが、当時はだれも土地が下がるとは思っていなかった」平気でこういう甘えた言い方をする。「当時の一般常識に従って行動しただけで、経営判断は正しい」責任を感じるなら、このようにはっきり主張して悪役を引きうけるべきだ。それによって、問題の輪郭が浮き出てくる。「一般常識」とはどういう範囲の一般常識なのか。経営者の仕事とは一般常識に従うことだけなのか。一般常識というマニュアルに従っていれば経営者の職務は成りたつのか。「いかがですか」という店員とどういう違いがあるのか。

とりあえず、金融機関はこうやってロジカルに追いつめるべきである。そこでロジックと文化の矛盾する所まで締めあげるべきである。同じ凡庸な言葉でもマクドナルドの「いかがですか」のように鍛えあげられた凡庸さ、というものは存在するのであって、その段階まで達してない金融機関には甘えがある。