俺たちの「リリース2.4.0」

音楽ファンの一人として、たくさんのバンドの終焉を見てきた。しかし、これほど平穏な気分で終わりを向かえることができるのは初めてだ。「このバンドはちゃんとやってるから、いつなくなってもおかしくないんだよ」 Yukiがそう言った日に、俺は今日の日が来ることを予感していた。そして今、とても晴れやかな気分で彼らの最後のCDを聞いている。

もちろん、俺にとって*Judy and Mary*がどうでもいいバンドだからじゃない。むしろcurrentで活動しているバンドの中では、最も好きなバンドだ。しかし、unstableなブランチはいつかstableなメインの枝にバックポートされなくちゃいけない。

世の中には、unstableな音楽とstableな音楽がある。 *linuxカーネルの2.3.xと同じように、unstableな音楽とは先進的であるが不安定な音楽だ。楽しみはいろいろあるが仕事には向いていないし、頼ることはできない。そういう音楽しかないとしたら人生はもっとハードなものになる。 stableでなければ生きていけないし、unstableでなければ生きてる意味がない。ソフトウエア開発と同じように生きることは難しい。だけど、Judy and Maryがunstableな輝きを失うことなく解散することは嬉しいことだ。

また、世の中にはunstableな社会とstableな社会もある。アメリカという国は、怪しげなパッチもどんどん入れてしまう一番unstableな国だ。俺たちは、日本というstableな社会にこの最先端のブランチをバックポートしてる最中なのかもしれない。バックポートとは、unstableなバージョンに入っている尖った機能を、 stableなバージョンに移しかえることだ。例えばlinuxのUSB対応機能は、unstableなバージョンである2.3の上で開発され、ある程度安定した結果が得られるようになってから、 stableなバージョンである2.2にバックポートされた。そして安定性をもう一段高めて、2.2.xとしてより多くのユーザに提供され、さらに細かいバグを取る。この時、stable上で得られたバグに関する情報は、2.3にも反映される。こういう相互的フィードバックの過程を長い間経てから、やっと2.4はリリースされたのだ。

ヨーロッパとアメリカもそういう関係にあるのかもしれない。ヨーロッパは長い間2.2のようなstableバージョンで地道に国や社会を運営してきた。 stableバージョンは一般的に長いメンテナンス期間を経ているうちに、構造が明解でなくなる。例外が多く全体像を把握するのが難しく自然と無駄が多くなる。部分的でもいいから、ゼロから再設計したくなった時、人はunstableなバージョンを分岐する。一から作り直すとどうしても新たなバグがたくさん混入する。ヨーロッパは長い間洗練されてないアメリカ人やアメリカ社会のことを田舎者と馬鹿にしてきた。しかし、再構成したバージョンは無駄がないから、動きだせば強い。その強さが最もはっきりと現実化したのがネットというものだろう。

だが、仕事はそれでは終わらない。 stableなレベルまで品質を上げてより多くのユーザを収容できる2.4をリリースしなくちゃいけない。 linusでさえ、この最後のフェーズは見こみ違いをして1年以上予定をオーバーした。時間はかかったが、どうにか彼はこれをやり遂げた。俺たちも、とっとと2.3と2.2を融合して2.4をリリースしてしまおう。

蛇足だが、Judy and Maryの美しい終わり方は俺にもうひとつインスピレーションを与えてくれた。正しく生きれば終ることは恐くないし悲しくないってことだ。「俺はちゃんと生きてるから、いつなくなってもおかしくないんだよ」そんな言葉をサラリと言えるように「ちゃんと」生きていこうと俺は思っている。