進化心理学的「ウォーリーを探せ」
「ウォーリーを探せ」がイライラさせるのは、人間がたくさんいるからだ。森の中や動物の群れの中にウォーリーが一人でいたら、すぐに見つかってしまいパズルにはならない。
我々の視覚のシステムは、人間の顔や形に反応するモジュールがあって、そういう図形を見るとそこで立ち止まってしまう。いくら「これはウォーリーじゃない」と思っていても、そのモジュールの反応を止めることはできなくて、いちいち目がひっかかってしまう。
だから人間は、「ウォーリーを探せ」の中で、自分の視覚システムを最適に稼働させることはできないのだ。
これは、進化の過程の中で、人間の形や顔を認知することが重要だったからで、脳の中にはそれ専門のモジュールが自律的に活動していて、人間を見ると自動的に反応する奴が、生存に有利だったのだ。そういうバイアスのある人間だけが生き残ってきて、我々は彼らの子孫として、人間の形に反応するモジュールが優先的に活動するような傾向を、不可避的に持っている。
その優先度は、相当な訓練をしないと変更できないのだが、ウォーリーが見つからないこと以外に、それで困ることはほとんどない。そのことが問題になることはない。
山岸俊男氏の社会的ジレンマによると、これは視覚や聴覚のような、単純な知覚の問題だけでなく、社会的関係の中でも同様に自律的に活動して、特定のパターンに反応するモジュールがあるらしい。進化心理学者は、そういうモジュールの存在を実験的に確認する為に、面白い実験を試みていて、そのいくつかが紹介されている。
例えば、P133に論理的なパズルの例がある。この問題は、次のように論理的、数学的なパズルとして出題されると、面白くもないし難しく感じる。
表にアルファベット、裏に数字が書かれたカードがたくさんあります。
これらのカードの中で、「母音の裏は偶数」というルールが成りたっているかどうか確認します。
「E」「K」「4」「7」という4枚のカードを見せられたとして、2枚だけ裏返して、そのルールが成り立っているかどうか確認してください。
しかし、次のように問題を変形すると、ずっと考えやすくなる。(変形バージョンはessa考案)。
ある趣味のサークルの中で「高収入の人は女性だけ」という法則が成りたっているそうです。
そのサークルの全員のメンバーの写真の裏に「高収入」「低収入」と書いて、その中から4枚の写真を抜き出しました。
二枚は表向きで一人が女性、一人が男性です。残りの二枚は裏向きで、「高収入」「低収入」と書かれています。
この中から2枚だけ裏返して、法則が成りたっているか確認してください。
答えは、男性の写真と「高収入」と書かれた写真である。男性の写真を裏返して「高収入」と書かれていたり、「高収入」と書かれた写真に男性が写っていたら、法則に対する反例となる。女性で「低収入」の人がいても法則の真偽には関係しないので、残りの二枚を裏返して結果を見ても、法則の判定の為には意味がない。同じ理屈で、前のバージョンの回答は、Eと7となるのだが、Eと4をめくりたくなってしまう。本質的には同じ問題なのに「難易度」や「納得感」が二つのバージョンで随分違うのではないだろうか。
コスミデスという進化心理学者は、このパズルのいろいろな変形バージョンを実験して、正答率を調べた。その結果、当然、抽象的な形でなく具体的な事例にあてはめた方が正答率が上がるが、その中でも特に「裏切り者」という関係にあてはめて出題すると正答率が特に向上することを実験で確かめた。
「裏切り者」というのは、「みんながガマンすればみんなが得をする」という状況の中で、「一人だけズルをして人に迷惑をかけて出し抜く」という行動を取る人だ。例えば、ほとんどの人がゴミを分別して出しているのに、一人だけ分別しないで出す人。
この実験結果が確認されれば、人間の形に自動的に反応する視覚のサブシステムと同様、「裏切り者」という社会的な関係を、自律的に認知、反応するモジュールが存在するということの、科学的な証明になる。
つまり、人間は進化の過程の中で、社会的な人間関係について優先的に認知するような傾向、バイアスを、本能的に持っていることになる。そして、その中でも得に「社会的ジレンマ」と山岸氏が呼ぶ状況には、特に敏感に反応する。つまり、みんながガマンすれば全員が得をするけど、個人としては出し抜いてズルをした方が得になる、という状況である。
もちろん、そういうモジュールがあったとしても、それは総合的な判断の下位にある。人間の形にいちいち反応して立ち止まっても「これはウォーリーでない」という判断は、それと別に可能である。だから、「社会的ジレンマ」や「裏切り者」を素早く認知することは誰でも共通だが、それを見つけてどう行動するかは、もっと高度の判断でそこは人それぞれである。
それで、これを読んで思ったことだが、現代は、人間関係や社会的関係が複雑で、「社会的ジレンマ」が無数に存在している。だから、「ウォーリーを探せ」と似た状況になっているのではないだろうか。つまり、「社会的ジレンマ発見モジュール」に対する刺激が多すぎて、それが暴走してしまっているのではないだろうか。
本来、「社会的ジレンマ」も「人間の形」も、人間の進化の中の長い歴史の中で、ほとんどの時代にレアなものであった。人間の生存する環境の中にはそういうものは非常に少なくて、もし見つけた場合は、すぐにそれに対応する必要があったから、それを担当するモジュールには、自律性と高い優先順位が与えられていたのだ。そういう状況に合わせて人間は最適化されている。
そして、それは過去の環境に対しては最適であったとしても、状況が変化すると適応の妨げとなる可能性もある。膨大で間接的な人間関係という無数の「ウォーリー」に囲まれて、我々の「社会的ジレンマ」発見モジュールは過負荷となり暴走していて、そのことが、人間の現代社会に対する適応の妨げになっているのではないだろうか。
例えば、みんなってあんたと誰?という問題は、人間関係や社会的貢献ということについて、ある部分で過敏になりある部分で無感覚になって、食い違いや不適応が発生しているとも解釈できる。人間関係や社会性について考える時、過去の社会システムに適応していて、本能的な反応を止めることが困難な部分が自分の中に存在している、ということを常に意識しておくべきかもしれない。
(補足)
山岸氏の安心社会から信頼社会へも興味深い本で、それについては過去に、おまえのような者は生きているジカクがないという記事で取りあげています。また、ガマンとズルと感情の民主主義 - pushされる言葉とpullされる言葉という二つの記事は、この「社会的ジレンマ」のテーマと関連が深いような気がします。