「世間」を破壊した事例としての羽生世代

将棋界がgenerativeであり続ける理由というエントリに、

たとえば、同じような頭脳ゲーム的分野である、数学や物理等の分野で大天才が出現したら、日本のアカデミックな世界は、そういう頭脳をここまで野放しにできるかどうか。本人は放置するしかないとしても、その反動が同世代の他の人たちに向かうのではないでしょうか。

と書いた所、id:MarriageTheoremさんから、コメントで質問をいただきました。

「そういう頭脳をここまで野放しにでき」ないとしたら、その天才はどういう扱いを受けるとお考えなのでしょうか。また、「同世代の他の人たちに向かう」という「反動」とは、具体的にどのようなことを指しているのでしょうか。

ひとことで言えば、「(その天才と彼の追随者たちは)『世間』からはじき出されるであろう」ということです。

ちょうど最上の日々に、アメリカの物理学会の「ソシオロジー」なるものについて書いてありました。

ソシオロジーとは、「学会の見方」の短縮表現らしい。若いストリング理論家と現状を論じるとき、「この理論は信じるけど、ソシオロジーがいやだ」などのことを言うのを耳にすることが多い。ストリング理論の学会で見られる視野の狭さや、年ごとに次々と流行の研究題目が出てくることについて意見を言えば、ストリング理論家はそれを認め、「私もいやですが、まさにそれがソシオロジーなんです」と言うだろう。複数の友人が、私に「この学会はストリング理論が正しいと決めたのだから、それについてどうこうできない。ソシオロジーとはあらそえない」と助言してくれたことがある。

これは、 迷走する物理学 という本からの引用だそうですが、物理学の学会と言えども、人間の集まりである以上、全てが理詰めで決まるわけではないようです。

おそらくこの「ソシオロジー」というものは、どんな国のどんな集団にもあることだと思いますが、日本ではこれが野放しになっている傾向が強いと思います。

実際、「世間」という概念を学問的な研究課題としようと訴え続けた阿部謹也氏も、反論もないけど肯定的な反応も得られなかったということを言っています*1。どんな重要な指摘であっても「ソシオロジー」に合わないテーマは、スルーされてしまうようです。

私が言いたかったのは、羽生世代は、将棋界の中でまさにこの「ソシオロジー」の変革を成し遂げたということです。

つまり、それまでのプロ棋士の多くが共通に持っていた「将棋の強さ=(狭義の)棋力+人間力」という見方を否定して、「将棋の強さはあくまで将棋の中で決まり、人格や人生経験とは関係無い」という新しい将棋観を認めさせたということです。

日本の社会は、この「ソシオロジー」的圧力が強い社会ですから、これは稀有な例として注目すべきではないかと私には思えます。

「反動」とは何かということについては、自分の中に具体的なイメージがあるわけではありませんが、こういう変革がすんなり受け入れられるケースはあまりないような気がします。もちろん当事者にとっては「すんなり」ではないのかもしれませんが、漠然と見ている限り、羽生世代の棋士にとって羽生さんという存在だけが悩みのタネであって、それ以外にはあまり悩みがなかったように感じます。そういうふうに問題に没頭できる環境はどうして生まれたのか、そこに注目すべきだと思います。

*1:著書に書いてあったと思うけど書名は忘れました