悩める親のためのブックガイド

子供が不登校になると、やっかいなことが次から次へと出てきます。給食費をどうやって返金してもらうか、子供会の行事はどうするのか、といったつまらないことから、中学校の制服は注文するのかしないのか(もし突然行く気になった時に、制服がないといけない)みたいな、微妙な問題もあります。

しかし、そういう形になる問題は難しいけど結局は何らかの結論が出ます。どんどん結論を出して問題を片づけていくと、だんだんわけのわからない問題、むしろ不安と言った方がいいようなものが出てきます。「この子の将来は」「自分は親として今何をすべきか」・・・そして、さらに深く掘り下げていくと、どうもこういう「不安」は子供の不登校から始まったものではなく、自分と子供との関係、もっと言えば自分の生き方自体から出てくるものなのではないか、と思えてきました。

そういう時期に、不登校に関する本をずいぶん読みました。なぜ不登校かというと、そういう不安は自分の問題ではなく子供の問題と思いたいからですが、このテーマは深いものがあるらしくて、随分いい本に巡り会いました。こういう本は、自分自身が自分の生き方に対して持っている不安を解消すると同時に、不登校という問題にどうとりくんでいくか、という両方一遍に解決してくれるのです。

逆に言うと、現代の日本で人間の生き方とかに真剣に取り組む人は、大なり小なり不登校という問題に取り組まざるを得ない、不登校という問題は、親を含めた現代日本の精神の問題の本質にかかわる問題だということでしょうか。

ここでは、そういうすばらしい本を紹介して行きたいと思います。なお、便宜的に書名をあげていますが、その本が特にいいというより手近にあったものを書いているだけです。ここにあげた本の著者は一生のテーマとしてこういうことに取り組んでいるので、別にその本でなくても他にもたくさんいいものを書いています。本の紹介というより著者の紹介だと思ってください。

「『家族』はこわい」 斎藤学

斎藤学(なぜか”まなぶ”でなくて”さとる”)さんは、精神科医として、拒食症やアルコール依存症の治療にあたってきた人です。実は、私の家内もこの先生のクリニックでカウンセリングを受けています。間接的に家内の問題にコメントしてもらったことがあるのですが、家内の手紙を読んでそこに書かれていないことを次々いいあてたので、ちょっと驚いたことがあります。治療者としては本当に経験豊富で信頼できる人です。

ただ、書いたり喋ったりするのはちょっと苦手なようで、むやみに学術的な言葉づかいになったり、論理性というか構成力というかそういう枠組みなしに結論だけがいきなり出てくるような文章で、本を読むことでこの人の考えを理解するのは難しいかもしれません。

とは言っても、どの本も事例が多く出てきます。拒食症や家庭内暴力のかなり悲惨なクライアントがたくさんいて、そういう経験を元にしていますから、何言ってるかよくわからないわりには、すごい説得力があります

この本はタイトルがすべてで、家族というものが一歩間違うとどれだけ子供の人生に悪い影響を及ぼすかを書いてあります。「家族という暴力装置」などという章もあります。特に、「普通の家族」が恐いそうです。

わたしがやっている家族機能研究所(クリニック)の扉をたたく多くの人たちが、世の中でいわれるごく普通の家族の人たちです。むしろ「健全な」「理想的」とさえ思われているような家族の方々です。

別の本では「親教」とか、「御本尊の世間様」とかいう表現で、こういう「普通さ」の危険性を訴えています。もし、自分や自分の家族は全く問題ないのに、子供だけがおかしいと思う人がいたら、この本に出てくる家族とよく突き合わせてみることをお勧めします。

「こころの子育て」 河合隼雄

このタイトルを見ただけで嫌になる人もいるかもしれません。私でも、*河合隼雄という名前がなくてこんなタイトルの本があったら、一目散に逃げ出します。なんでこんなタイトル?と思ったら、これが一種の策略になっているみたいです。子育てのハウツーを聞きたがる親、つまり、河合隼雄さんの考え方から一番遠い人が間違って買うように、こういうタイトルになっているようです。はっきりとは書いてありませんが、まえがき等を読むと編集者がそういう発想でこのタイトルに決めたようです。

どうしてハウツーを求めるかというと、自分で責任を取りたくないんですね。子供が学校に行かない、無理に行かせたほうがいいのか、自分が行く気になるまでほっといたほうがいいのか?こういう選択肢がある時に自分で決めたら自分の責任です。うまくあたればいいですが、不登校がよけい長引けば、決めた人が対応を間違ったことになります。決断をすれば、そのたびにいつもこういうことを考えてしまいます。誰かエライ人にどちらが正解か教えてもらえば自分は責任をとることなく決断できるのです。

河合さんは、この気持ちを「こころのエネルギーの出し惜しみ」だといいます。親がどうしようか悩むことが重要だというのです。「無理強いするか放任するか、どちらがいいのか何日も迷いに迷った末の結論ならば、どちらにせよ意味がある。間違っていたって意味がある。今は、ものを買い与える時に経済的に問題がないから、高いものでも悩まないで買い与えることができる。そういうこころのエネルギーの出し惜しみが問題の根っこにある」ということです。

この本は、子供の成長段階にあわせてありそうな質問をならべあげて、それに河合さんが「ありそうもない」回答をするという形式になっています。「ありそうもない」回答と言っても奇をてらって常識の逆を言っているのではなく、本当に見逃している真実をボソボソと関西弁まじりで指摘するのです。

特に印象的なのは、自立とか個性とか個人主義についての考え方。日本はこういうものを西洋から輸入しているが、こういう考え方にはいい面と悪い面と両方ある。西洋は個人主義にしても年季が入っているから、悪い面をカバーする知恵がいっぱいある。核家族という生き方をカバーするためにホームパーティをやる、個室を与えても一定の年齢までは鍵をかけさせない、こういうちょっとした文化の中にそういう知恵がいっぱいあるというのです。日本は、個人主義を輸入して家父長的な権威主義を否定した時に、そういう知恵も全部否定してしまった、だから、家族の中で起こる問題を緩和したり解決へ導く方法が何もなくなっている、という説です。

少し引用すると


大家族では子供の親は「若夫婦」として、家の若い労働力として家を支えるのがまず大事で、赤ちゃんはおじいちゃん、おばあちゃんとか(近所の人たち等の)ほかの人たちが育ててくれていた。(中略)親がいきなり父親役、母親役をするようには鍛えられてこなかったわけです。

この問題が凝縮されているのが、「母親像」です。西洋では母親という個人の中には、女性という面と母親という面、その他にもいろいろな面があって、生き方に幅があるけど、日本では、母親になると母親というアイデンティティ一本槍になってしい、しかも、母親のいい面が強調されすぎていて、日本の女性にとって母親になることはものすごく窮屈なことになっている、と言います。

実は、この問題は、河合隼雄さんのデビュー作である「ユング心理学入門」という本(何と昭和41年発行)に書かれていたことです。この高度成長の時代に日本が西洋の文化や思想を輸入して社会の在り方が変わったのですが、その時、忘れた半分が今吹き出しているように思えます。私もそうですが、松田聖子も林マスミもこの頃に子供時代を送った世代です。われわれの母親の世代がその頃おかれていた矛盾が、今になって吹き出しているのように感じます。

ちょっと脱線した感じなので、もう一個所だけ引用して終わりにします。

確実なことだけ(わが子に)させようとする親は、子供の人生を、だれもがやっているような最大公約数に押し込もうとしているだけです。(中略)個性は数字に換算できないところにあるんです。学校の勉強で何が得意かというのは、数字になってるからわかりやすい。でも、「うちの子はやさしい子や」というのは、点数の裏付けがないことですから、そう言えるのはすごい自信のある人です。数字にならないことで、子供をピタッと評価できたら、その親子関係はもう絶対に強いです。自分の子供にどれくらい誇りを持ているか、ということです。どの子にもみんな、そういう誇れるものが絶対あるんですよ。

不登校を生きる」「僕らしく君らしく自分色」 東京シューレ

東京シューレは、いわゆるフリースクールの草分けです。主催している奥地圭子さんは、長年、小学校の先生をしてきて、自分の子供さんの不登校をきっかけに「子供たちの居場所を作ろう」という趣旨でそういう学校を始めたそうです。私は、子供二人をここでみてもらえないかと思って、見学に行きました。子供も私も、ここの雰囲気はすごく気に入ったのですが、残念ながら地理的な問題などいくつかの理由で入学には至りませんでしたが、すごく印象に残りました。

何より、ここにいる子供たちが元気なんです。すごく表現力が豊かなことに驚きました。親むけの説明会では、子供たちが自分の不登校からシューレ入学までの経緯や、今、シューレでどんなことをしているか話してくれたのですが、どの子の話も聞いていて面白いのです。その後で、見学に来た親たちが自分の体験を話したのですが、親の話は回りくどくてなかなか要点がわからない(自分の話もそうだったのかもしれませんが)。こう言ってはもうしわけないかもしれませんが、聞いていて眠くなるのです。それと比較して、子供たちの話はどれもイキイキとしていることがすごく印象に残りました。自分の子供の理解に役立つとか、参考になるとか、そういうレベルでなくて、聞いていてあきない面白い話をするのです。こういう子供を育てられるのは素晴らしいことだと思います。

ここにあげた2冊の本は、そういうシューレという場のパワーが伝わってくる本です。

「賢治の学校」 鳥山節子

これも、フリースクールを主催している人の本です。こちらはシューレとはちょっと違うアプローチで、「からだ」とか「いのち」とかそういう面から不登校の問題に取り組んでいる人です。

私にはうまく紹介できないので、詳しくは紹介しませんが、やはりいろいろな意味で勉強になるし、ある意味で内容は深刻だけど、気持ちは楽になってくる本です。