親は思ったことや感じたことを言え

もうひとつ北沢かえるさんの所からだけど、これもすごく大事な話だ。

最近、ある人と話していて小学生の時に犬が車に轢き殺されたリアルグロ画像を見た話になった。二人とも小学校の低学年の時にほぼ同じ体験をしていて、グロ加減までほぼ同じだったのだけど、その経験の受けとめ方が全然違っていた。

いろいろ話して、その理由をひとつ思いついたんだけど、僕の場合は、近くにいたおっさんが「こら、子供はこんなもの見るな」と怒鳴って僕らを追っぱらった。その人の場合は、近くにいたおっさんは何も言わずに当然のようにそれをまとめてゴミ捨て場に片づけたそうだ。その経験は、その人の心にすごくショックを与えたらしい。たぶん、僕の場合も、そのおっさんは当然のようにそれをまとめてゴミ捨て場に片づけただけだと想像するけど、怒鳴られたことで僕(と近くにいた何人かの小学生)はいくらか救われたのだと思う。

当時の子供はグロ画像に対する耐性なんてないから(そういう問題じゃないかもしれないが)、これは相当ショックな体験で、僕もその人も自分が見たものを受けいれられずに、混乱して立ちすくんでいた。ただ、僕の場合は「ああ、これは見てはいけないものなんだ」という形で、かろうじてそれを自分のこころに収めることができた。

もちろん、訓練を受けたカウンセラーが学校にいて、継続的なカウンセリングをしたりして、そういうショックな体験をした子供をきちっとフォローしれくれればもっといいのだけど、欲を言えばキリがない。というか、本質的なことを言えば、そのおっさんで充分である。

いくらトンデモない経験をしていても、そばにいる大人が、何かの反応をしていれば、それを頼りに経験を消化することができる。子供にはそれくらいの強さはある。別に親がテレビに出れるくらいのコメンテーターになる必要はなくて、横で馬鹿なことを言っていればいいと思う。子供は「馬鹿な親が馬鹿なテレビを見て馬鹿なこと言ってらあ」くらいに思って、通りすぎてしまう。

最近ずっと考えていたことだけど、大人の役割は目的地になることではなくて、基準点になることではないだろうか。基準点っていうのは、どこにあってもいい。目的地から遠くたって反対の方向にあったって問題ない。ただ、動かないことと自分を晒すことが必要だ。「馬鹿な大人が馬鹿なことを言ってらあ」と思われることが、基準点の役割である。基準点を頼りに子供たちは馬鹿な大人よりずっと先に進んでいける。ただ、馬鹿さかげんにきっちりとした足場がないと基準点にはなれない。

僕を怒鳴ったあのおっさんは、子供に何の配慮もない人だったけど、あの瞬間基準点になってくれたのだと思う。そういう基準点さえあれば、リアルグロ画像も問題じゃないし、ましてチャットやテレビやゲームなんて全然問題じゃない。馬鹿なテレビも問題じゃないし馬鹿な大人も問題じゃない。

問題なのは、小利口でフラフラして基準点にならずものごとを人のせいにして逃げ回る大人である。だから、子供たちは孤立してしまい、自分ひとりでいろいろな体験を受けとめなくてはならないのだ。