非合理の置き場

皇位継承順位は、明解なロジックによって決まっている。「系図木構造のデータとして与えて皇位継承順位順に対象者を表示する」なんて、プログラミングの練習問題としてちょうどよさそうだ。

しかし、そのロジックで選ばれた人がなんで特別の地位を継承するのかについては、合理的な説明はない。

このように、社会の中には論理的に仕組みを説明できる部分と、説明できずに「ただこうなっているからこうなってるんだ」としか言えない所がある。現代社会は、合理的に運営されているようで、実はたくさんの非合理な部分を持っている。

現代でもそうなのだから、古代社会、国家というものができる前の部族社会は、もっとたくさんの非合理があるような気がするが、中沢新一さんが言うには、どうもそうではないらしい。部族社会は、むしろ現代社会よりずっと合理的にできている。いろんなルールがUMLで書けそうなくらい論理的にできている。緻密で複雑であるが、例外事項や非論理的な不整合がほとんどない。ほとんどのSEは、もし可能ならば、現代社会でなく部族社会を顧客とすることを望むだろう。

なんでそうなるかと言うと、聖なる空間、つまり非合理の置き場がハッキリと決まっていたからだ。ある部族では、夏期が仕事をする時期で、この間は合理的なルールに支配される。冬期は「祭り」の時期で、仕事用の組織や人間関係は解体され、それ専用のリーダ(シャーマン)のもとで、別のルールによって動くことになっている。

つまり、仕事と祭りが時間的に峻別されていて、両者が互いに干渉しないシステムが、うまく機能していたわけだ。仕事面のリーダ(中沢さんの言葉では首長)とシャーマンは、別人がなるし、権限や要求される能力も全く別物なのである。ナウシカの父親とババさまのような役割分担ではないかと思う。ババさまは「大地の怒りが〜」とかいろいろアヤシげなことを言うが、ナウシカのパパは合理的な思考の持ち主に見える。お互いに相手を尊重していて、人々は事項ごとに従うべき人を知っていて、従うべき人に自発的に従う。

それで、「技術」というのがこの図式の中では、シャーマンの領域にあるものとされている。ここが一瞬、アレっ?と思ってしまうのだが、技術と言うのは、本来は人間が持っている力ではなくて、自然の持つ力を無理やり引っぱり出す行為であって、そういう危険なものはシャーマンが面倒見るものとされていた。だから、それは本来仕事の権力や組織や行動原理とは、慎重に区分けされているべきものなのだ。

そして、現代の我々のイメージする権力(中沢さんの言葉では「王」)は、仕事用の権力(=首長)と非日常+技術の権力(=シャーマン)を合体したことから発生したと言う。我々は非常に危険な禁じ手を使ってしまったわけだ。

ナウシカのパパが、権力者なのに謙虚で冷静で暖かい人柄になっているのは、非常に非現実的なことのように感じるのだが、祭りの世界に立ち入らない、日常系に限定した権力であれば、ああいう感じになることも充分可能なのである。実際、多くの部族社会では、部族で一番「まとも」な人がリーダになる。技術の力を取りこみ、祭りの空間も支配しようとするから、権力が凶暴で横暴で非論理的になっていくのである。

首長とシャーマンの危険な合体で「国家」と「歴史」が始まった。それは「歴史」の始まりからあったことだが、技術の進歩でその狂気の深さは拡大し深化してきている。例えばヒトラーは、あきらかに以前にない危険な領域に踏み出している。彼が王として手にした「技術」は、それまでに無いほど、たくさんの人を殺人に駆り立てた。

ネットの中で使われる「技術」は明らかに魔術的だ。ネットの中には非日常の祝祭空間があって、それがはらむ狂気は、外側の日常空間の正気を保つのに役に立っていると思う。ネットには二つの可能性がある。王を首長とシャーマンに解体し、全体的なバランスを取り戻す可能性と、ヒトラーより危険な、暴走する権力を産み出してしまう可能性だ。

我々は非合理の置き場を切実に必要としていることを、もっと意識すべきだ。