談合社会の崩壊の中で「お母さん」たちが担っているもの

私は、不登校児の親を支援するボランティア団体をお手伝いしていて、その関係で直接間接にいろいろなケースを見聞きする。それを直接ブログのネタにしたことは無いが、それは、子供の問題というのは千差万別で、ちょっと覗いたくらいで簡単に論じられるようなものではないからだ。

しかし、一方で、不登校の問題は家庭の問題でもあって、その切り口から見ると、むしろ実にワンパターンであると思える所がある。

ひとことで言えば、家庭の中で「お母さん」方は、実に損な役回りを押しつけられているということだ。

今時は、不登校の問題はどこでも認知されていて、単純にお母さんが孤立し途方に暮れるというようなことは無い。学校や行政からの支援は、時に的外れだったりして地域によるバラツキはあるが、とにかく様々な方策がある。夫や親族や地域社会も簡単な問題ではないことは理解していて、有形無形の援助はたくさんある。

しかし、何らかの重要な「決断」を必要とする場面において、ほとんどの場合、お母さんたちはたった一人で物事を判断しなくてはならない。

たとえば、保健室登校などでようやく学校へ行っている子供がいよいよギブアップした時、少なくとも当面は学校へ行かせないし毎朝の行かせる努力も中断する、そういう決断が必要になる場面は不登校に関してたくさん発生する。

これは、「別に学校へ行くだけが人生じゃないし」とか他人事としては口にしてたような人たちにとっても、いざ自分の子供がそうなった時には、かなりの重荷になる決断である。

そういう決断の時に、お母さんたちは孤立している。

この孤立のあり方は、談合社会の談合的意思決定の中でよく見られる形である。誰も物事の優先順位を明確にしない。たとえば不良債権の処理において、決算の名目上の数字を取るか会社の実質の資産を守りダメージを軽減するか、「どちらも重要だ」と言う野次馬はたくさんいるが、片方を切り捨てることの責任を取る人は誰もいない。

夫や親族は、アドバイスしたり相談にのってくれけど、その「アドバイス」の実態は、責任をシェアすることでも具体的な方策を明解に示すことでもなく、無理難題をふっかける「圧力」でしかない。

状況が変化して、今まで両立していたものが両立しなくなった時、どちらを取るか。会社では、誰かが明確に決断して指示すべきであり、失敗した時は実行者でなくその責任者が責任を負うべきだ。家庭では、みんなが相談して共同責任でリスクを受け入れるべきだ。

ちょっと誇張して言えば、そういう時、多くの夫が「まかせるからお母さんのいいようにしてくれ」と言う。そして、休ませた結果不登校が長びいたり、無理を重ねて子供が原因不明の熱を出したりすると、その決断ミスをお母さんのせいにして批判する。

この巧妙に責任回避しつつ微妙に自分の要望を圧力として伝える術は、談合社会の中では大人の生き方として正解とされている。夫たちは、妻や子供を愛していないわけではないが、ついつい職場における会議の時のようにふるまってしまうのである。会議における意思決定は、参加者が責任を公平にシェアするのではなく、責任者がいないまま押しくらまんじゅうのように物事が決まる。それを家庭でやるから、お母さんが押し出されるようにして決断をさせられ、結果責任を負うことになってしまう。

学校でも支援団体でも、相談に来た女性に「お母さん」と呼びかけるけど、そもそも「お母さん」というこの言葉が、このことのアンフェアさを象徴していると私は思っている。(だから、この文章では無理してその言葉を使っている)

選択を間違えた時の責任を決して個人が負わなくていいようにできている談合社会があれば、誰かを家庭の中での役割で呼ぶことは問題ない。主体も無いけど責任も無いから釣り合っていると思う。そういう社会が残っているなら、誰かの母親に「お母さん」と呼びかけるのは筋が通っている。

しかし、現代の「お母さん」は決断を強いられ責任を負わされる。しかも、子供のことを完全に理解していて、間違いがなくて当然と思われている。責任を強いるなら、主体であることを認めるべきで、「○○さん」と名前で呼びかけるべきである。名前で呼べば呼ぶ方も呼ばれる方も、時に間違いをする人間であることを認めやすくなる。

もっと極端な例を言えば、たとえば、子供の状況に適した塾なりフリースペースなりが見つかったが、それが遠い所にあって送り迎えが必要だったとする。この場合、「子供さんにはそれが最適だけど、とても時間がかかってお母さんの負担が大きいので、他の所を探しましょう」と言われて、家族はそれを素直に受けいれられるかどうか。「お母さん」自身が素直にそれを受け入れ、家族に余計な言い訳なしで結果を報告できるかどうか。

「お母さん」は子供のために、生活の全てを犠牲にするのが当然と思われている。どちらも大事な家族だから片方を犠牲にするような解決は本当の解決ではない。そういう発想が普通にできてはじめて、母親を一人の個人として認めたことになる。

談合社会にぶらさがっていれば、自動的に職が与えられ子供が健全に育つような世の中は、もうすでに無い。だから、誰もが、自分が決断をする主体であることを受け入れ、相応の責任を持ちながら助け合わなくてはならない。みんながそこから逃げると誰かに皺寄せがいく。

談合社会では押しくらまんじゅうの果てにすぐ人が死ぬようになり、家庭では「お母さん」という損な役回りから全力で逃げ出す人が増えて、人が生まれなくなっている。

不登校っていうのは、子供が学校に行っても行かなくてもたいした問題ではない。むしろ、この「お母さん」という言葉が象徴する問題の方がずっと根の深い問題だと思う。

(6/5 追記)

マクロな責任感の構造が家庭内に入り込んでいる

そうそう、私が一番言いたいのはそれです。

デリケートな問題なのでうまく書けているか不安でしたが、こういう的確な要約を見ると安心して励みになります。