ウィルスは忖度しないモノと見るべきだけど人間の社会脳も同じようにモノとして見るべき

社会脳仮説とは、人間の脳のチップ面積の半分は対人関係処理専用プロセッサが占めているという話だ。

「大型クルーズ船における新規感染症の対策について」という論文があって、「法的な強制力の適用条件」とか「船内特有のゾーニングの困難さとその対処」なんていう目次があったとしても誰も読まない。でも「岩田 VS 高山、インチキ野郎はどっちだ」という話になると大変な注目を集める。

注目を集めるだけではなくて、やりとりを見ているうちに、問題の構造を多くの人が普通より理解し始める。

カードの数当てゲームみたいな問題を、数学的な複雑性や構造をそのままにして「チートしているのはこの4人のうちの誰でしょう?」という問題にすると、正答率が有意に上がるという研究があるそうだ。

人間は、モノの論理を考えるより、対人関係の中の問題を解く方がずっと得意なのである。

これは歴史が古く、人間が猿だった頃からそうだった。そもそも、100万年前に猿の脳が大きくなって人間になったのだけど、その時分には脳が大きくなるメリットはほとんどなかった。脳が大きくなると頭の大きい子供を未熟なまま産むしかなくなるので、種の生存にとっては大変なコストになる。ライオンの習性をちょっと早く学習したり、木の実の種類を少し余計に知ってるくらいのことでは、とてもペイしない。

だから、何でそこで脳が大きくなってしかも生き残ったのかは大きな謎だったそうだが、どうもこれは、集団で石投げをして天敵や獲物を倒すということができるようになるためだったらしい。チームプレイができれば、石投げは強力な武器で、何も怖くなくなる。気候変動でジャングルから草原に投げ出されて大変なピンチになった我々の祖先は、チームプレイを覚えて、突然、天敵を恐れる必要のない強者になった。

この時に、チームを大きくすることと、チートする奴を排除することが必要で、これには相当大きな専用プロセッサが必要だったのだ。言語を使うことはもちろん、相手の視線の向きや意図を理解したり、チート野郎の行動を時系列に沿って覚えることなどには、脳の負担が大きくそれ向きの専用プロセッサがないと処理できないレベルらしい。

我々の学問は、この専用プロセッサを本来の用途と違う使い方をすることで出来上がっている。だからみんな数学が苦手だし、フェイクニュースがなくならない。フェイクニュースがもし100万年前にあれば、我々の祖先もみんなそれに乗せられていたのだ。

これは、定説とは言えないが、それなりのエビデンスも集まってきてるそうだ。

借金の証文に「もし払えなかったらみんなの前で恥をかかされてもいいです」というのがあるそうだが、チームを追い出されることはライオンに対峙するよりずっと命の危険があるというのは、人間の脳のバグではなくて、少なくとも我々の祖先にとっては現実であり、我々の脳は100万年かけて、それを恐れるように進化してきたのだ。

そこで、これから岩田さんの立場になる人への提言なのだけど、高山さんのような人をサイエンスの外から発言する人と見るのではなく、社会脳学という別のジャンルの専門家として見るべきなのではないだろうか。

つまり、これはサイエンスと組織運営の対立ではなく、感染症学と社会脳学という二つの学問分野の専門家による立場の違いであると。

政治家や官僚の人は、「社会脳」という分野におけるスペシャリストで、もちろんきちんとした理論的なバックボーンは持ってないけど、長年の経験でその分野に高い知見を持っている人である。彼らの肩書きがそのエビデンスであると言ってもいいと思う。

そして、感染症学と臨床医学だったら、危険性の高い検疫の場では、感染症学が上に立つべきなのと同じように、感染症学と社会脳学だったら、多くの場合、社会脳学が上に立つというかグランドデザインをすべきなのはこっちだと思う。

ただ、その人の社会脳学の適用範囲は見極めるべきだろう。

クルーズ船の対応にあたる組織だけに着目して、多くの制約がある中でこれをどう動かせば最善の結果が残せるか、という観点は、完全に高山氏の専攻分野で、問題をこのレベルで考えるならば、岩田氏が高山氏のストーリーに乗って、しばらく大人しくしてから高山氏がゴーを出したタイミングで暴れまくるのが最善だ。

でも、日本全体の問題と考えると、DMATの関係者、つまり志が高く機動力のある医療の専門家を汚染のリスクにさらすのは問題だと私は思う。つまり、士気を下げて船内の活動の妨げになっても、医療関係者を守るべきだったと思う。ただ、これは「ウィルスは忖度しないからモノの論理、サイエンスの論理を優先すべきだ」という意味ではない。社会脳学的観点からのリスクより感染症学的観点からのリスクに重点を置くべきということ。

これは単なる素人考えだけど、サイエンスとそれ以外の対立ではなく、我々が社会脳を持ち社会脳に動かされる存在であることも外的な事象として受け取った上で、ウィルスと社会脳という二つの動かせない現実に対していると考えて、その両者の専門家が協力して対策を考えなくてはいけないと、そういう枠組みで考えた方がいいのではないだろうか。