今こそ読もう!「中空構造日本の深層」
これって、天皇=部長、将軍=次長と考えると、サラリーマンならピンと来る話じゃないでしょうか。
つまり、部長がおかざりで、NO2の次長とか部長代理が実権を持って仕切ってる部って、意外と仕事がしやすいということです。もちろん条件はいくつかあって、
- 部長は大幅に次長に権限移譲している
- 次長は叩きあげで、現場の細かいことまでよく知っている
- 部長の「出自」がいい (親会社や銀行からの出向組とか)
これだと、部長と次長が仲良くなくて違うこと言ってても、下の者は迷うことが少ないんです。
部長が、朝礼で何かトンチンカンな方針を言うと、すぐに次長が「あの人は現場のことがわからないから、適当に合わせておいて、今まで通りやればいいんだよ」とかフォローしてくれる。
逆に、部下が失敗して次長から厳しく叱責された時には、部長がフォローしてくれる、みたいな感じで、相互に役割を補完しあっている。
要するに、実務を仕切るリーダーの上に、何もしない人が形だけ立っているっていう形が、日本人にとって受け入れやすいんです。逆に言うと、強いリーダーシップを持った人は、いくら優秀でも一番上に立つと感情的な反発を持たれやすい。ひとつクッションがあった方がリーダーシップを発揮しやすい。
河合隼雄さんはこの本の中で、古事記の中に、このパターンが繰り返しあらわれていると言って、それを「中空構造」と呼びました。
私なりに言うと、「社会のOSとしての神話」という話ですね。OSは起動時にしか自分の存在をアピールするメッセージを出しませんが、マシンが動いている間中、常に裏で稼動しています。同じように、神話は建国というはるかな過去の話のようで、現代の社会の背後で動いていて、アプリケーションプログラムのような今動いている目に見えるシステムの制約となっているということです。
安倍首相が戦後70年の談話の内容を決める時に、天皇陛下の「お言葉」を強く意識されたという話が伝わっています。この真偽はフォローしていませんが、この話を、ほとんどの人が「あり得る話」と受けとったことが重要だと思います。
天皇陛下が、誰かに政治的な意向を述べられたという話は、オフレコの話としても一切出てきませんが、同時に陛下はリベラルなお考えをお持ちで安倍政権の右傾化に懸念を持たれているのではないかという話は、よく聞きます。
河合さんは「中空」が単なるからっぽではなくて、中心への侵入を許さないという意味の存在感を持ちつつも、何も形や意図やエピソードを持たない存在、としていますが、今上陛下は、日本の歴史の中でも特にピュアな形での「中空の象徴」として、日本という国の中心に存在しておられると思います。
もうひとり、「中空の象徴」としての役割を見事にこなしている(いた)人は、2ちゃんねるのひろゆきだと私は思います。ひろゆきも具体的なことは何もしない人ですが、多くの2ちゃんねらが2ちゃんねるの中心にひろゆきがいることを意識していました。
「おまえら、ひろゆきの前で、そんなマジレスして恥ずかしいと思わないの」
ひろゆきの存在が、2ちゃんねるに最低限の(本当に最低限ですが)抑制となっていたような気がします。ここで言いたいことは言いたいように言うけど、本当はここで言っていることは表に出しちゃいけないことであるというような暗黙の合意が共有されていたように感じます。
それで、河合さんは、こういう日本独特のリーダーシップのあり方と対比して、欧米の社会は、「英雄神話」を基盤としていると言います。
私は、エアフォースワンのハリソン・フォードとかスタートレックのカーク船長のことかなと理解しました。つまり、リーダーは自分でどんどん決断して前に出て行く人がいいということですね。そういうタイプのリーダがなじみやすいし、そういう人に率いられている国には神の庇護があるという感覚です。
「英雄神話」には、「剣でモンスターを切断する」という重要なモチーフがあります。この「切断する」という働きが、科学技術を発展させてきた。科学は真と偽をまっぷたつにすることで、英雄神話になじみやすいんですね。
法治とかアカウンタビリティとか市場とか、そういうルールとプロセスを明確にするという近代国家のベースは、全部この「英雄神話」というOSの上にのっかっているということです。
だから、これを別のOSで動かすには、エミュレータ層が必要になって、このエミュレータはアプリケーションレベルに見えているので「意識高い系」とか揶揄されたりしてしまいます。エミュレータの上で動いているアプリと、OSに直接乗ってるアプリの間では、通信がうまくできないのが、明治以来の日本の宿痾です。
ここまででもお腹いっぱいですが、さらにこの一つ上のメタレベルに河合さんの最も重要なメッセージがあります。それは、「神話を言語化せよ」ということです。
これは、社会契約説のことを考えると、よくわかるような気がします。
これって、神話レベルから実務や学問のレベルに連続的に話がつながっているんですね。
河合さんとか井沢元彦さんとか阿部謹也さんの本て、どちかと言えば学説や論文でなく「面白エッセイ」として読まれていると思います。本の内容でなく読者への受容のされかたが「面白エッセイ」だと思います。
でも、ロックやホッブスだって、出た時は、同じように「面白エッセイ」だと思うんです。「自然状態」とか「一般意思」なんて、典型的な「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」です。河合、井沢、阿部あたりとそんなレベルは違わない。
違うのは、後に続く人たちが、ロックやホッブスに厚みを与えていったことですね。歴史的な検証をして、哲学的にも深めて、その後の時代に合わせてフォローしていった。それによって、「社会契約説」というWikipedia の項目は個人名とは別の項目になっています。脱属人化して実務レベルとのインターフェースが整備されてる。
その結果できた「社会契約説」には普遍性があるので、2ちゃんねるでも自民の憲法草案のスレッドとか見てると、これを解説してる人がたまにいたりします。相対性理論が誰にでも勉強できるよう社会契約説も本読めば誰でもわかるんです、今は。日本人は、河合、井沢、阿部あたりから、同じレベルまで持ってかないといけないと思うんです。
実は、河合隼雄が死んだ時は、私はすごく腹が立ちました。「今こんな大事な時に、河合隼雄が死ぬなんて、そんな無責任なことが許されると思うのか」と思ったんですね。
それで、この文を書き出しに追悼エントリーを書きはじめたんです。「しめしめ、ここからあちこち寄り道しながら強い尊敬の念を表現する所にもってけば、面白いエントリーが書けるぞ」と思ったんですね。
ところが、いくら考えても単純な罵倒の言葉しか出てこなかったので「ああ、自分はどうもこいつが死んだことに本気で腹を立てているらしい」と気がついて、追悼エントリーはあきらめました。
この「中空構造」をもう少しちゃんと書いてほしいと切実に思っていたのですが、まあ、今考えると、あの人がいくら書いても「面白エッセイ」にしかならないので、その望み自体がちょっと的はずれだったような気がしますが。
私は利権ってどこにでもあるし一般的にはそんなに大きな問題ではないと思っています。でも日本の利権は、暴走して自滅してしまうんですね。ネット私刑なんかより、状況判断ができない利権のほうがよっぽど怖いですよ。
利権が状況判断できなくなる時は、「中空構造」が壊れている時で、そういう時こそこれを言語化する必要がある。修復するにせよ、破棄して別のOSに乗りかえるにせよ必要。英雄神話的コンプライアンスに実質を持たせるためには、これを相対化することが必要で、その足場として、「中空構造」を「面白エッセイ」以上のものにした上で、英雄神話と対比することが必要です。