母性的なガンコ者

ミ チ ク サ 日 記に、ある種の扱いづらい男について、うまい記述があった。


彼がいつも私に投げかけているのと同じ口調で、彼の中の“世間は皆そう思っているはず”的意見に対し、初めて根気よく、だけど私は違うのです、こういう考えもあるのですと態度をはっきりしただけなのですが。

「こういう考えもあるのです」と言うことをやめないと、「俺を否定するのか」と怒り出して、最後には「言葉の暴力」と非難する。面倒くさくなって、「なーなーな態度をとる」と


すると途端にご機嫌になって「ほら、やっぱり俺の言うとおりだろ」と言うわけですね。こういう男性に限って。

つまり「自分と違う意見の人の存在」がこの人の感情に直結しているわけである。

  • そういう人が存在していることを主張する→不機嫌
  • そういう人が存在しているという主張を撤回→ご機嫌

「自分と違う意見の人の存在」を主張することと、「自分の意見を否定する」ことは一緒ではない。特に、「宇都宮餃子がとびっきり美味しい」というような、主観的な意見については、論理的にも日常生活の普通の会話としても、「あなたはそう思うけど、私はこう思う」は成り立つはずだ。

id:a2004さんの指摘する人にあてはまるのかどうかはわからないが、私の経験では、こういうタイプは「相手を包みこむ」ような会話をする。「相手を包みこむ」というのは、母性の特性なのだが、男性や社会の権力者がこれを濃厚に持っているのが、日本の特色だというようなことを、河合隼雄が言っている。

それも、1967/10に発表されたデビュー作のユング心理学入門(こちらに要約あり)で言っている。この本では、得意の河合節はまだあまり発揮してなくて、1章から10章までは素直なユング心理学の紹介だ。最後の11章のみ、東洋や日本の独自の課題として、かなり控え目に彼自身の考えを述べている。

その一つのポイントが母性の否定的な側面だ。「地面に肉になっていて、その肉の地面がうごめきそこに飲みこまれる」という強烈な夢のイメージを借りて、「全てを包みこみ飲みこむ母性」という母性の恐しい面を強調し、その危険性への対処が日本の課題だと言っている。

西洋では、「英雄を呑み込んでしまおうとする太母との戦い」によって、この危険性に対処している。日本では、「太母の世界(家族制度)とアニマの世界(公娼制度)をはっきりと分ける」という社会的な制度で、これを温存し、さらに「父権」に絶対的に権力を与えるという方法で、制度的にバランスをとってきた。しかし、戦後、その「父権」が崩壊したことで、この「全てを包みこみ飲みこむ母性」に歯止めがきかなくなっている、という分析だ。(表現は上記要約から引用)

「包みこみ」という機能に注目していると、母性的なものが、中年男性のアイデンティティや権力に関わる制度の中に、あちこちに暗黙に含まれていることに気がつく。

極東ブログ: 自殺者で3万人、交通事故で1万人死ぬ社会の最後に、


何言ってんだか。母性なんてただ支配の無意識でしかないよ。説明するのもうざったい。

とあるのが、これじゃないかと思う。追いこまれて逃げ場がなくなるのは「包みこまれている」からで、こういう時は、父性(象徴的には剣)の「切る力」が必要なのだ。ぶったぎって開き直って決算すれば、道は開ける。

ふだんイバっているくせに、自分と違う意見に「おまえは馬鹿だ」と言い切って、話を終わりにすることもできない母性的なガンコ者には、異質な他者との対話をすることもできないし、ピンチの時に枠組みを変えて対策を考えることもできない。父性の欠如こそが、問題なのだ。