「分配と搾取の物語」の効用と限界

この話は、価値を創造するシステムを軽視して、価値を分配するシステムにのみに目を向けた話だと思う。

分配のシステムに注目しそれに適応することは、個人の世渡りの為には正しい方法だった。これまで、価値の創造というのは、巨大な工場とか高層ビルの中のオフィスとか鉄道のような、とても個人には手の届かない大規模で高価なシステムを中心に回っていたからだ。その観点からは、

仕事を発注する側に回れんだよ。

というのは正しいと思う。つまり、生産手段の近くにいる方が有利で、その為には、

「叩き上げで獲得した専門性」なんて言っているが、それはいったいどこで「叩き上げ」られたんだ?

しかし、現実には「いい学校」を出た「ブランドつきのいい子」が「叩き上げで獲得した専門性」を発揮して日本をここまで経済的に発展させてきたんだよ!!

というように、社会に入る時点で、なるべく生産手段の近くにいる必要がある。スタート地点における格差が自分を「叩き上げ」る機会の格差になって、その格差がより拡大していくことになる。

だから、価値を分配するシステムの中で起こっていることは、id:AntiSepticさんの言う通りだと思う。

で、問題は、このシステムに入ってくるお金、このシステムが全体として稼ぐお金が減ってきていることだ。

派遣によって正社員が特権的地位になってしまったから、余計に世のお母さま方は焦ってんだよ。

そうすると、ぶんどり合戦はより熾烈で非情なものになるので、上流にいることの重要性がますます増してくる。「分配の物語」が「搾取の物語」に変わりつつある。

これが日本において説得力のある「物語」なんだろう。

「分配の物語」の中で価値があるのは、肩書きと権威である。ある人が自分の分け前を取ることを、他の人が納得するに足る肩書きと権威を持っているかどうか、それが重要である。課長の給料をもらうには課長の肩書きを得ることが必要だし、部長の給料をもらうには部長の肩書きを持つことが必須条件とされる。

これまで日本において、価値の創造はこの「分配の物語」の中で行なわれてきた。

つまり、生産の為には、課長の能力を持つ人が課長の地位につくべきで、部長の能力を持つ人が部長の地位につくべきだが、部長になりたい人は、部長の能力を獲得することを目指さずに、部長の肩書きを目指した。

しかし、生産が中央で行なわれている時には、地位が人を作る。価値創造の現場の中枢にいれば、自然と情報も入り、実業務の経験を積む機会にも恵まれ、人脈を広げることができる。だから、「部長の能力が欲しい」と思う人がいなくて、誰もが「部長の肩書きが欲しい」と考えても、それほど問題はなかった。

「分配の物語」は生産の現場と整合性があったから、ディテールを必要としない人には、それだけで充分だったのだ。

だから、各人が「分配の物語」に添って自分の人生設計をすれば、社会はそれなりに回り、企業は国際競争力のある製品を製造して利益を得ることができた。みんなが肩書きと分配について考えていれば、能力とか生産とかについて考える人はごく少数で良かったのだ。

しかし、「分配の物語」が「搾取の物語」に変わることで、それが価値創造とリンクしなくなってきている。だから、価値創造とつながった別の物語が必要とされている。

能力を得る手段としての学歴には今でも意味があるが、肩書きとしての学歴は時代送れで有害である。

能力を得る手段としての学歴は、常にそのコストパフォーマンスを評価される。私自身はそこに否定的であるが、他の人が自分と違う見方をしていてもそれを変えようとは思わない。特に、子供の教育にはそれぞれ個別の事情があるから、そこに干渉しようという気は全くない。

学歴を能力獲得の手段と見ている人は、子供の将来の理想像を持っているが、同時に、その中の不確定な部分も認識している。学歴が能力につながる保証はないことを承知していて、でもこれが一番確かな道だからそこを歩ませているのだ、ということをちゃんとわかっている。だから、将来何が起こっても対応できるだろう。

しかし、子供の将来の為に我が子に肩書きを与えようとしている人は、未来を固定的に見過ぎている。肩書き獲得までの道筋を全部固定して、そこを歩ませようとする。そこに危うさを感じる。

日本が今まで通りに動かなくなっていることは誰でも知っている。「分配の物語」でそれを解釈すると、「搾取の物語」という未来が確定的に見えてくる。椅子がなくなるまで椅子取りゲームを強制され続けるだけの未来。だから、子供の将来は搾取する側か搾取される側かその二つだけだ。

価値創造の物語で同じものを見ると、先は何も見えない。言えるのは、これからも日本が価値を創造し続ける為には、何かを変えなければいけないということだけだ。その為に、どういう能力が必要とされるのか、そこには無数の物語がある。

社会は複雑で人生それぞれだから、無数の物語がある方が健全だと思う。

特に今は、価値の創造が、周縁で、異質のものの出会いの中で行われるようになりつつある。

たとえば、こうして私とid:AntiSepticさんが、ネットの中で出会うと人気エントリが生まれる。id:AntiSepticさんのエントリを読んで痛快な思いをされている人もたくさんいるようだが、私はそういうものも一つの価値だと思う。id:AntiSepticさんの芸風は、批判対象のブログが無ければ生まれなかったと思うが、それは、秩序ある世界の中では起こらない。

私は、id:AntiSepticさんは、ブログ以外では「いい子」なのではないかと想像している。そうでなくても、この芸風を発揮する機会はブログ以外にはあまり無いだろう。もし仮に、ネット以外でid:AntiSepticさんと私が出会ったとしたら、お互いに猫をかぶって相手のことを何も知らないまま、何も起こらずに終わるだろう。

こういう出会いを、もう少しマイルドな形で組織を壊さずに起こせるかどうか、そこに企業の存亡がかかっていると私は思っている。

むろん、この見方は良くて天気予報程度の確実性しかないだろうし、同じ天気図に対して違う解釈をする人もたくさんいる。私が言いたいのは、自分の天気予報を信じろということではなくて、明日の天気はわからないし、わからなくても生きていけるということだ。

「分配と搾取の物語」に添って解釈すべき現実もあるだろう。そこから目を背けるべきではないという批判は受け止めるが、その効用と限界を正しく見極めるには、価値がどうやって生まれているのかにも注目し、未来が不確定であることを受け入れるべきだと思う。

一日一チベットリンクCNN.co.jp:拘束者1000人が依然として行方不明と チベット