『いい学校・いい会社・いい人生』という物語
今は新卒一括採用ゲームでの勝利が人材価値を保証しない。叩き上げで獲得した専門性が人材価値をもたらす時代だ。なのに教育界や親がいまだに『いい学校・いい会社・いい人生』である。教育界はこの「勘違い」で飯を食う利害当事者だし、親はかつての常識から抜けられない。
これが某全国紙に載らなかったことは残念だ。
というのは、私は中学生くらいの子供を持つ母親と話す機会がけっこうあるのだけど、30代くらいのお母さんたちは、ここで言う『いい学校・いい会社・いい人生』という価値観を固く信じている。
その信念をどれくらい自分の子供に押しつけるかということには大きな個人差、バラツキがあるけど、彼女たち自身はこれを固く信じていることがかなり多い。『いい学校・いい会社・いい人生』つまり自分の子が「ブランドつきのいい子」のまま育てば、幸せが約束されているという信念はまだまだ根強い。
日本の中である時期までそれは確かな真実だったかもしれない。今でもそれが通用している所も多いだろうし、日本人はそういう考え方を変えることはできないかもしれない。しかし、日本が変わらなかったら、世界の中で日本は沈没するしかないことは確かだ。
日本が変わるとしたら、「叩き上げで獲得した専門性」が評価され「ブランドつきのいい子」は行き場を失なう。
日本が変わらないとしたら、日本がまるごと沈没するので「叩き上げで獲得した専門性」にも「ブランドつきのいい子」にも安定した生活は望めなくなる。
「叩き上げで獲得した専門性」でうまくいく保証はないが条件によっては道が開ける、「ブランドつきのいい子」はどちらに転んでも楽な人生にはならない。
日本には資源が無いのだから、外国から評価されるものを持ってなければどうにもならない。世界基準で市場価値のある労働力がなければどうにもならない。すごく単純な話だけど、これをお母さん方に理解してもらうことは難しい。
私は、自分が話が上手いとは思ってないので、自分自身が説得できないことは織り込み済みである。問題は、自分よりこういう話が上手い人なら説得できるかどうかということだ。私の感触としては、本当にこれは誰がどう言っても考えを変えないだろうなあ、という気がする。
たとえば、ビジネスの現場では「ブランドつきのいい子」はもはや評価されないという話をするとしよう。事例として、ネットのベンチャー等を持ち出したら「それは特殊な世界の話」「別の世界の話」と思われてしまう。だから、なるべく彼女たちが想定する仕事のイメージに添った所で、同じ話をする。そうすると、「表向きは違うように見えるが、結局評価されているのはブランドの方である」という受け取り方をする。
事例としてあげる仕事の現場が彼女たちの想定外だと「それは違う世界の話」、想定内だと強引にこちらの意図と違う解釈をする。
話し方はいろいろあると思うが、彼女たちがもともと持っている価値観で解釈できない話は受けつけず、解釈できる話だとその解釈で通して聞いてしまう。だから、これは誰がどういう話をしても事態は変わらないという気がする。
別に頑固だったり頭が悪いということではなくて、30代くらいの既婚女性の世界ってそういうものらしい。
つまり、自分と配偶者の両親、近所や同級生のお母さん方、パートの職場、そして子供の学校の先生方、自分の学生時代の友達(これは同じように結婚して子供がいる人がどうしても多くなるようだ)の間では、『いい学校・いい会社・いい人生』という考えしかなくて、その間では強い一貫性がある。相当に知的好奇心が強い人でも、グローバル経済のごく基本的なことも視界の外になってしまう。テレビで評論家が何か言うと「競争から落ちこぼれていい子になりそこねたら、これからはもっと大変だ」というふうに聞いてしまう。
だから、そういう反応も仕方無いのかな、とも思うけど、こういう話もある。
視点は変わるが、一つの社会観を絶対化することが社会病理につながる。この場合の絶対化とは、社会を物語ではなく、事実として受けとることを言う。つまり、一つの客観的な社会的事実が存在すると信じ、他の多様な解釈による物語を排除することである。自然科学のように、一つの対象に一つの事実=真理しかないという物理的リアリティとして社会を捉える思考枠組みである。社会はこれこれであると、固定化して捉え、その社会の中で縛られて生きているという意識となる。それは、全共闘世代において、社会を資本主義社会としてしか観察できなかった左翼の若者の社会病理現象に見て取れる。報道による秋葉原通魔殺人事件の犯罪動機からすると、格差社会が一つの相対的な視点から構築された物語にしかすぎないのに、それを不動の動かぬ客観的事実であると見なして自己を位置付けたことで、自己を追い込んでいるように見える。これは社会を絶対的な客観的事実として見なすことによる自己閉塞感である。そして、社会を実体視する典型的な社会宿命論である。社会が自己の存在に立ちふさがる一つの絶対的な化け物として表象されているのである。
社会理論を利用して社会を主観的に自由に解釈してもいいが、複数の解釈を採用し、状況によって使い分ける社会構築主義のような器用さが必要なのである。当人が主観的な解釈とは思っておらず、客観的事実だと思っているのが問題なのである。社会を語ることは物語をつくることであるという相対的な感覚が、社会病理を防ぐのである。
これが実感としてよくわかる。
私の実感としては、仕事の中でもネットを見てても、無数の「物語」がぶつかりあっているのが現代社会である。だから、何かを「客観的事実」として提示しようとは思ってなくて、先方の「物語」を別の「物語」で相対化しようとしているだけだ。
しかし、彼女たちにとって、『いい学校・いい会社・いい人生』は客観的事実になってしまっているのだ。そして、これに反する事例は全て「物語」なのである。「物語」で「事実」を相対化することはできない。
社会の中に「物語」でなく「事実」を見てしまったら、別の事実でそれを相対化する機会を失う。何故なら、その「事実」に反する事象は全て「物語」になってしまうからだ。
国中で一つの「物語」を「事実」とすることが社会病理であるとするなら、日本は社会病理を持ったまま成功した珍しい国なのかもしれない。たった一つの物語が広く流通し、成功体験と社会病理が結びついているので、そこから離れられないのだ。