自分の絶望が理解されないだろうという絶望

深い絶望を検知するそのソフトは赤木論文に反応するだろうか?というエントリで私が言いたかったのは、セキュリティ社会を構築するのに近道はないということです。

それを示す為に、総務省の構想(とそれに期待してしまう一般の人の気分)は、結局、「絶望の検知」に帰着すると書きました。私は、コンピュータが絶望の検知をすることは原理的に不可能だし、大半の人は常識的にそう考えると思っていました。しかし、その認識は自分が思ったほど共有されてないようです。

私は「犯罪予告検知システム」に期待されているものを「謀議の検知」と「絶望の検知」に分けましたが、犯罪を犯そうとしている者が既にはっきり決行を決意していて、誰にも邪魔されたくないけど、情報交換の為にやむを得ずネットを使うケースもあると思います。これの情報を決行前に検知して予防の措置を取ることを、私は「謀議」の検知と呼びました。

インターネット全体を網羅的に監視すれば「謀議」の検知は可能だしそれによって犯罪を抑制する効果もあると思います。しかし、それには非常に大きな副作用があります。これは、効果と副作用のバランスを考えて論議されるべきものです。「犯罪予告検知システム」にもそれに関連する側面があると思いますが、ここではそれには触れません。

また、本当はやる気が全く無くて単純なイタズラ目的で犯行予告だけ行うケースもあります。「犯罪予告検知システム」はむしろ、これを助長する要素があると思いますが、これについても除外して考えます。

それ以外の場合を、私は「絶望の検知」と呼びました。つまり、表面的には犯行を決意しているけど、内部には強い葛藤を抱えていて、その葛藤を表現する為に、誰にでも見える場所に犯行予告を書き込むという行為です。この葛藤の部分に焦点をあてなければ、この行為の意味は読み取れないと思います。

それは、「誰かに見つけてほしいけど、おまえたちには見つけてほしくない」ということです。この「おまえたち」は、彼が経験してきた世界の中での社会全体を指しています。

「誰かに見つけてほしいけど」の部分が無ければ、そもそも公開の掲示板に書き込むということはしないでしょう。彼はわずかながら最後の希望を持っているわけです。これは心情の吐露を含まない単純な犯行予告の場合でも同じだと思います。事前予告したら、わずかでも犯行が妨害される可能性は高まるわけですから、「誰か俺を見つけて止めてくれ」という気持ちは含まれていると考えるべきだと思います。

しかし、一方で、彼がほとんど犯行を決意しているとしたら、そこ以外には彼は一切の希望を見出せなかったということです。社会の中に、経験としても可能性としても、自分の助けになる場所、自分が所属できる場所を一切見い出せなかったということを示しています。それを全部含めて「おまえたちは誰も俺を助けてくれなかった」という気持ちがあって、それが彼を犯罪に駆り立てているのですから、これまで関わった社会に対して、「俺の邪魔をするな」という気持ちもあるに違いありません。

これに対して、「犯罪予告検知システム」に何ができるでしょうか。

最初のうちだけは、予告した者の意図に反して引っかかるケースもあるかもしれません。しかし、すぐに「おまえたちには見つけてほしくない」の「おまえたち」の中に、このシステムが入ってくるだけのことです。

だから、それを回避して予告する方法があれば、検知されないように予告するだろうし、それが難しいと考えれば、無言のまま決行するだけでしょう。

そもそも、テキストから感情を読み取るのは現在のコンピュータにはほとんど不可能なことですが、そういう技術論以前に、「そのシステムが視界に入ってきたら犯行を決意している人間はどう考えるか」を少しでも想像すれば、すぐにそれが意味がないことがわかると私には思えます。

私は、あるレベル以上のプロの政治家は必ず有権者の反応を計算して発言すると考えていますので、「犯罪予告検知システム」という発想には、本音の部分では一定の有権者の支持があるのだろうと判断しました。

そこが日本の社会の不健全な部分を象徴していると思います。私が一連のエントリで批判の対象としているのは、その部分です。

「誰かに見つけてほしいけど、おまえたちには見つけてほしくない」あるいは「自分の絶望は誰にも理解されないだろうという絶望」といった心情を非常に強く拒否し排除しようという傾向です。そういうことを言う人たちの心の中に、ちょっとでも立ち入りたくないという恐怖心のようなもの。

それは、赤木氏の論文に対する論壇の反応にも表れているし、id:umetenさんの「サイレントテロ」という問題提起も、同じような意義を持つと思っています。それらが、思想的な概念を使っている時点で、議論に関われる人が限定されてしまうのは仕方ないとしても、そこに表れている議論の傾向は、かなり普遍的な構造を持っているように感じます。

つまり、赤木論文は、私が批判の対象としているこの社会の不健全な部分を浮き上がらせることに成功した、そこを私は評価します。また「サイレントテロ」という概念は、もう少し広まれば「これを根絶やしにしたい」という反応を呼び起こすことによって、同じような効果を持ち得る概念だと考えています。

「自分の絶望は誰にも理解されないだろうという絶望」が自分の中にあると私は思っています。そして、それを共有していることによって誰かとつながれるという希望は持っていません。この二つの問題提起は「話せばわかる」と安易に共感することを予め封印しておくような構造を持っていて、私はそこに共感します。

私が思うのは、社会はそういう心情を受けいれる寛容さを持つべきだということです。それが最もローコストで効果的で副作用の少ないセキュリティ対策になると考えています。

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