事実と解釈の混同の例

Thirteen Lies : 否定論13のウソというページは、「否定論のウソ」に対して「事実」をぶつけて反論するという体裁になっています。しかし、この中には「事実」とは言えない反論がいくつか含まれています。

  • 「当時、国際的な批判はこの「事件」についてはなかった」
  • 「マギー牧師の証言は虐殺をみたのは1件だけだと言っている」
  • 「李秀英さんの証言を読むと食い違いがある」
  • 「「百人斬り」というのは捏造記事である」

これらに対する反論は、否定派の提示した「事実」と「解釈」に対して、「事実」を認めた上で、「解釈」が間違っていると主張しているものだと思います。そういう形で反論した方がより明解な主張になるように私は感じます

例えば、最初の項目に対する反論は次の通りです。


1937年9月というと南京陥落前であったが、南京爆撃を国際連盟の決議は非難している。つまり日本軍の中国侵略そのものを非難しているのである。南京大虐殺というひとつの事件に対する非難がないからと言って国際批判がないというのは当たらない。

これをそのまま受け取れば、「日本軍の中国侵略そのものを非難している」けど「南京大虐殺というひとつの事件に対する非難がない」というのが「事実」です。否定派はこれをひとつの根拠として「南京大虐殺はなかった」とか「国際的には通常の戦闘行為と見なされていた」と主張しているようですが、これは「解釈」あるいは「推論」です。

否定派の「解釈」や「推論」を批判することは全く問題のないことだし、その反論のうちいくつかには私も同意しますが、それを「事実」としてぶつけるのは混乱の元だと思います。これらの項目については、この人と否定派の間では「事実」に対して事実上コンセンサスができていて、それを土台としてどう解釈、評価するかについて争っています。

資料に基づく「事実」の主張は、客観的な検討、確定的な真偽に至ることが比較的容易です(絶対に可能とは言えないにしても)。しかし、「解釈」「推論」「評価」等は、全員が納得する唯一の解が得られないことも多いと思います。後者のレベルでコンセンサスを得るためには、より一層慎重で幅広い議論が必要です。

「事実」に対して別の資料があって反論する項目と、「事実」は受け入れた上で「解釈」「推論」「評価」等について反論する項目は分けるべきだと思います。また、極限状態を経験した人の証言について、「事実とウソ」という対立的な議論の土俵に乗せるかどうかは、慎重に考えるべき問題です。この点については、さらに別の配慮が必要ではないでしょうか。

このページでは、「解釈」「推論」「評価」等に関する自分の主張に対して、「事実」というラベルを貼っています。これは、主観の多様性を否定して、唯一絶対的な「正義」の解釈を押しつける行為のように、私には映ってしまいます。

なお、私はこういう所について混乱のある主張が全部ウソだったら世の中が単純でいいと思っていますが、これはただの私の願望であって論理的な主張ではありません。主張の方法が不当であることは、それだけでは、その主張が間違っていることの根拠とはなりません。私もそういう傾向がありますが、ここを間違えてしまってる人も多いような気がします。

(当ブログの関連記事)