不安ベースのバックラッシャーと富豪的なジェンダーセンシティブ

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(キャンペーンブログ)

これを途中まで読んだ。

どこまで理解できてるか不安があるが、自分へのメモを兼ねて(大胆にも)野球を使った喩え話で紹介してみようと思う。

一番興味を引かれたのが、バーバラ・ヒューストンという人が説く「ジェンダーセンシティブ」という考え方。しかし、

ある状況下でジェンダーが機能しているのか、どのように機能しているのか、そしてジェンダーに注意を払うべきなのか、それとも払うべきではないのか、性差別をなくすべく導入した方針はうまく働いているのか、などの問題がありますが、これらについて、私たちは抽象的なレベルにおいて答えを知ることはできないのです。このような問題に対しては、(「ジェンダー・フリー」アプロ−チのような)抽象的なレベルではなく、常に個々の具体的な状況に即して、どのようにジェンダーが機能しているか(すなわち、上で述べたような、性差別をなくすべく導入した方針がうまく機能しているかなどの問いについて)を検討しなくてはならないのです。

これでは難しくてよくわからないので、「阪神ファンと巨人ファンを区別すること/差別すること」と置き換えて理解してしまおうと思う。

球場に観戦に行くプロ野球ファンというのは、漠然と野球が好きなわけではなくて、あるチームを好きになってそのチームの応援に行く人がほとんだと思うが、だいたい自分のチームのベンチと同じ側に固まって席につく。そうすれば、試合の進行に一喜一憂する時、隣の人と同じ気持ちを共有できて、一緒に声をはりあげることができて、一人でただ見ているより何倍も楽しい。この感覚は多くの人に共有されているから、観客の座る席をどこのファンかで区別し指定することは必要だ。

しかし、東京ドームの巨人阪神戦でホーム側の席とアウェイ側の席で料金が違ったら、これは阪神ファンと巨人ファンを不当に差別したことになるだろう。あるいは、2リーグ制存続の是非についての意見を求める場で、巨人ファンが一番多いからと言って巨人ファンの意見ばかり取り上げたら、これも不当な差別になるだろう。

ジェンダーセンシティブ」は、このような意味で、「阪神ファン」とか「巨人ファン」という言葉が使われたら、それによってどのような区別が行なわれてどのような効果が生まれているか、いちいちチェックしようということのようだ。「私たちは抽象的なレベルにおいて」、巨人ファンと阪神ファンを区別すべきか否か、答えを知ることはできない。状況に関わらず両者を同等に扱えというのも、状況に関わらず両者を別扱いせよというのも暴論だ。

阪神ファンはすぐ道頓堀に飛びこむから乱暴な人ばかりだ」というような言説を見たら、「阪神ファン」や「巨人ファン」という言葉がそこでどのように使われているかについてセンシティブになれと、バーバラ・ヒューストンさんは言っているのだと思う。全ての阪神ファンが道頓堀に飛び込むわけではないが、ニュースで確かにそういう映像はよく見るし、割合としては多いかもしれない。でも、こういうことを言う人は何を意図しているのか。次に「だから、警備への負荷が大きいから入場料を多く取るべし」とか言いださないか。

あるいは、逆に、2リーグ制存続是非についてアンケートを取る時に、「巨人ファン」と「阪神ファン」を区別するのはやめて一括で集計しようという話になったら、数で勝る巨人ファンの声が「野球ファン全体の声」として集計されてしまうことになる。これは一括ではなくそれぞれのチームのファンの意向を個別に明かにした上で、どう調整すべきか考えるべきである。

阪神ファンと巨人ファンを区別することは常に悪だからいかなるケースでも絶対にすべきではない」というのは極論であって、バーバラ・ヒューストンさんはそんなことは言ってないのだが、「ジェンダーフリー」と叫ぶ人は全員そういう極論を言っている、つまり社会から一切の性差を無くそうとしていると決めつけてしまうのが、バックラッシャーによるジェンダーフリー批判である。

そして、そういう批判の中でバックラッシャーによってよく援用されるのが、「脳科学によって性差が証明された」という一見科学的な根拠をもとにした主張である。

これは「道頓堀に飛びこむ」人間を統計的に調査して、「阪神ファンと巨人ファンでは道頓堀に飛びこむ可能性に統計的に有為な違いがある」と言うようなものだ。仮にそうだとしても、大半の阪神ファンは飛びこまないし大半の巨人ファンも飛びこまない。どこのファンでも野球ファンの多くは常識ある社会人だし、どこのチームにも突出して暴れる奴はいる。グループ間の差異より個体差の方が大きいのだ。グループ間に違いがあるという主張が科学的に正しいとしても、それが、阪神ファンに対する不当な料金差別の論拠にはならない。

山本貴光+吉川浩満「脳と科学と男と女ーー心脳問題<男女脳>編」紹介瀬口典子「『科学的』保守派言説を斬る! 生物人類学の視点から見た性差論争」は、そのような主張に対する冷静な批判である。これは、女性問題というより、疑似科学批判として興味深い。

山口智美氏の「『ジェンダー・フリー』論争とフェミニズム運動の失われた10年」では、この論争のねじれっぷりが詳しく解説されている。この論争に興味がありつつもなかなか論点が把握できなかった私としては、これによって、その原因がよくわかった。これも喩え話で解説してみる。

まず、料金差別が既にあったとして、これを撤廃しようという運動が起こる。この運動には、多くの野球ファンが参加しているが、「野球ファンとしての一体性」と「阪神ファン、巨人ファンとしてのアイデンティティ」のどちらに重点を置くかについては、さまざまな立場がある。

そして、料金差別の維持を求める勢力は、撤廃運動のさまざまな立場の中から、批判に都合がよい主張を取り上げそれを極論にした上で、批判するのだ。「応援するチームごとに席を分けることは、野球観戦という文化の基盤であるが、『ジェンダーフリー』等と言って、その文化を破壊しようとしている勢力がいる。これは野球というスポーツそのものを破壊し、自分の勢力に取り込もうとするサッカーファンの陰謀である」という感じ。

フェミニズムには、次のような点でさまざまな立場がある。

  • 「性差撤廃」重視VS「ジェンダーセンシティブ」
  • 行政側(+一部の学者)VS運動家(+草の根)
  • 「意識」の変革重視VS「制度」の変革重視

そして、それぞれにおいて過激派と穏健派がいる。

日本における「ジェンダーフリー」という言葉は、当初、「ジェンダーセンシティブ」「行政」「意識の変革重視」「穏健派」という立場によって使われた言葉だ。しかし、バックラッシャーが批判する「ジェンダーフリー」は、「性差完全撤廃」「運動家(共産主義の革命勢力)」「制度の変革重視」「過激派」というものにすりかえられている。それぞれの論点でさまざまな立場の人がいる中で都合がいい組合せを恣意的に選択しているのだ。

それによって、フェミニストの側も、「ジェンダーフリー」という用語が何を意味するのかについて論争が起こり混乱が生じた。その混乱に乗じて、バックラッシャーは、自分で作りあげた「球場において一塁側三塁側の区別を無くそうという運動によって野球観戦が破壊される」という一方的な主張を批判することで支援者を増やし、料金差別という不当な制度を維持しようとしているというわけだ。

しかし、そういう、かなりレベルの低い論点のすりかえが、そこそこ通用しているのは何故か?

それを分析をしているのが、鈴木謙介氏の『ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である』であり、後藤和智氏の『教育の罠と世代の罠――いわゆる「バックラッシュ」に関する言説の世代論からの考察――』であり、宮台氏のインタビューである。

三者に共通するポイントは、バックラッシャーは、主張の内容でなく主張のスタイルによって支持を広げているということだと思う。つまり、世論は、バックラッシャーが唱える政策を支持しているのではなく、バックラッシャーの物の言い方に吸いよせられているということだ。

その「物の言い方」とは、不安を煽り、その不安の原因を陰謀論的にでっちあげ、それを是正する物と自分たちを位置づける形で、自分たちが何ら積極的な主張をしていないようなフリをすることだ。残虐な犯罪が起こる、家族関係が崩壊する、子供や若者が理解できないことをする、不況が終わらない、といった不安を何かひとつ取り上げ、「そういう問題の原因はこれこれの勢力だ」と断定する。その陰謀を打破する為に、普通の人たちが常識的な感覚で意思表示をすべきであるとして、それを行なうのは自分たちであると位置づける。

宮台氏らは、これは有効でコストパフォーマンスに優れた戦略であることは認めている。つまり、世の中が流動化して伝統的な生活ができなくなると、誰もが自分の居場所を失い不安になる。そして、その不安の原因は、たくさんの複雑な要因がからんだもので、よほど努力して勉強したり情報収集したりしないと、理解のとっかかりも得られない。そういう不安、不満の形は大半の人に共通するものである一方、「何が幸せか」「人生で大事なことは何か」という積極的な幸せの形はたくさんあってみんな違うし、他人の理想とする幸せの形が理解できない、受容できないものであることが多い。

「不安」をベースにすれば、少ない品揃えでたくさんのユーザにアピールできるが、「幸せ」をベースにしたら、多種多様な商品を用意しておいて、それぞれの個別のニーズに細かく対応していかなくてはならない。

バックラッシャーは「不安」をベースにすることよって効率的に客を集め、フェミニズムは「幸せ」のあり方の多様化に対して愚直に対応しようとするので、動員にせよ論戦にせよ効率が悪く、後手後手に回っている。

ジェンダーフリー」という言葉に対する反応にそれが典型的に表れている。バックラッシャーは現実にはほとんど存在しない偏った極論としての「ジェンダーフリー」を攻撃目標として、効果的に支持を広げているのに対し、フェミニストは有効な反論をする前に、それぞれの立場に固執して「ジェンダーフリー」という言葉の定義や位置づけを巡って内輪の議論をはじめてしまうのだ。

そして、この「不安ベース」対「多様性ベース」という図式によって、私が少しだけ理解できたことがある。

この問題に興味を持ってから、フェミニストらしき方々のブログを結構な量拝見したが、内輪揉めの議論が多いという印象は強い。もちろん、バックラッシャー的言説への批判も多く目にしたが、それと同じくらいの分量でリベラリストと思える人に対しても見方によっては痛切ともとれる批判をしている。

その多くの議論が専門的で、部外者には論点をつかむのも容易ではない。専門知識が無いと見えてこない重要な問題がそこにあったのかもしれないが、バックラッシュという共通の敵がハッキリそこに存在しているのに、何故わずかな差異(としか素人には見えないような些細な問題)にこだわり同士打ちを繰り返しているのか。

バックラッシュ!」という本に含まれる論文の多様性によって、この疑問にボンヤリとだが自分なりの答が見えてきた。

それは、幸せのあり方について真に多様性を追及するならば、お互いの共通点でなくて、まず相違点をしっかり確認するということは必要なのかもしれない、ということだ。

不安ベースのバックラッシャー的言説に真に対抗するものは、多様性そのものであり、「反バックラッシュ」の立場に立つ者同士は、まずお互いの差異を確認することが連帯の基本となるしかない。いや、それは左内部の話だけではなくて、本来は、右と左との間でも、相手の立場を事前に簡単に「あちらはこういう主張」と決めつけることはおかしいのだ。

右の人は、そのようなコミュニケーションに乗ってこないので、自然と「差異の確認」は左同士で行なわれることが多くなる。

「差異の確認」があれほどアグレッシブなスタイル(に私には見える)で行なうことに必然性があるのかという疑問は、依然として残っている。しかし、動員効率を考えず差異の確認を徹底的に行なうことを、単に下手で無意味な戦略とだけ見るのは、何か見落しているかもしれないと私は思うようになった。

ジェンダーセンシティブ」は、全体を抽象的なモデルとして統一的に理解することではなく、個々の状況の差異に注目することを目指すらしい。

再び野球のたとえに戻れば、「ジェンダーセンシティブ」は、「阪神ファンと巨人ファンの対立」と「野球ファンとしてのアイデンティティや共通利害」のどちらにも与しない。野球界にとってたくさんある課題、対サッカー、対大リーグ、対テレビゲーム、対IT長者(によるメディア支配のための球団買収)、その他、を、いちいち拾いあげ丁寧に議論する。過去に一応の結論が出たことと似たような問題があっても、新しい問題は新しい文脈に置いて再度考え直す。「我々阪神ファン」と言うべきか「我々野球ファン」と言うべきかは、常に個別に考慮されるべき一般解の無い問題なのだ。そのように問題をとらえようとする。

つまり、「ジェンダーセンシティブ」は「富豪的プログラミング」と同じような意味で「富豪的」である。効率的で無駄の無い開発体制を持つプロプライエタリソフトに、富豪的で人的リソースの無駄使いしまくりのオープンソースが充分対抗できているように、極端に複雑な世界には一理ある考え方だと思う。

そこが、この本を読んで考えが変わった所である。