自分自身とネットの中にある「テンション」

それは、どれくらい多くの人が自分自身の中にある対立しあうものの緊張(テンション)に耐えられるか、これにかかっていると思います。

アクティヴ・イマジネーションの世界―内なるたましいとの出逢い
アクティヴ・イマジネーションの世界―内なるたましいとの出逢い

この本のP25に出ていたユングのこの言葉を見た時に、「テンション」という言葉で最初に思い浮かべたのは、ネットの中にあるたくさんのホットな議論だ。議論を見ている時に、私の中にはテンションが起こり、そのテンションの解放を求めて、あちこちのリンクをたどる。時に自分でも議論に参加する。しかし、たいていの場合、テンションは解決せずに私の中に蓄積する。


議論に参加した人たちと読んだ人たちの多くが、意見は全く違うのに、ひとつの「テンション」を共有しているように思えることがある。ひとつの「テンション」が「私を表現せよ」「私を解放せよ」と言って暴れているのだ。その「テンション」にとらわれた人が、自分の時間と知性とエネルギーを絞り取られる時、ネットの中に議論とカスケードが生まれる。

私たちのこころの中に、自分たちが気がつかないまま、私たち全員で共有しているものがある。ユングはそう主張して、それを「集合的無意識」と呼んだ。そして、その共有しているものを探検する為の手法をたくさん生み出した。その中で、最もラディカルで一子相伝的要素が強いのが「アクティブイマジネーション」という技法である。

「アクティブイマジネーション」とは、自分の心の中で起こる対話や物語に、自分から積極的に介入し、イマジネーションの中でアクティブな役割を果たし、それを分析することのようだ。単なる空想と違うのは、「私」と物語の相互作用のあり方にあるらしい。そこには経験的にしか伝わらない微妙な要素があり、単純な技法ではない。だから、この本を読んでも、具体的に何をどうやるかはわからない。危険を伴なうものなので、意図的にあいまいにしてあるような気もする。そして、あいまいに隠さているものが、ネットの中に露出しているように、私には思える。

はてな」や2ちゃんねるは、jkondo氏やひろゆき氏が発明したものだろうか。それとも発見したものだろうか。

何も実体が無い所に、彼らが何かを一から創造して、そこに人々が引きよせられたようには見えない。そうではなくて、「はてな」的な何か、「2ちゃんねる」的な何かは、もともと存在していて、jkondo氏やひろゆき氏がそれを発見したように感じる。彼らは人が共感を寄せる中心となるポイントに近い場所を発見し、毎日毎日、そのポイントを少しづつ修正しながら、真の「はてな」、真の「2ちゃんねる」をたぐりよせているようだ。

同じような意味で、ネットの中には多くの「発見」があったし、これからもたくさんのサイトが「発見」されて行くだろう。

そのような「発見」されたもの、「発見」されつつあるものは、「発見」される前には、どこにあったのか?

ユングは、それらを「元型」と呼び、「集合的無意識」の中にもともと存在していたと言う。「対立しあうものの緊張(テンション)」は、その中にある。

患者
私には、あなたに話してみたい困ったファンタジーがありました。それは人間にわたすつもりのなかった自分の一部を盗まれて、神が怒っているというものでした。その一部というのは、核分裂にまつわる自然の秘密や、それにも匹敵する、ユングの神に関する知識のことです。神は自分の暗い側面を人間が知るべきだとは考えていませんでした。自分でもこれについては無意識のままでいるつもりだったのです。神はこの恐しい仕事を抑圧したくて、抵抗してきました。だからユングとその追随者たちは、神から見ればみんな呪うべきものなのです。
グレート・マザー
あなた方の危険は、思いすごしではありません。あなた方はその途方もない緊張(テンション)を身をもって体験してきましたね。私のいう緊張というのは、あなた自身の暗い側面を意識しなければならなかったときに、あるいは一つの創造的プロセスがあなたのなかに現れ出ようとしていたときに、あなたのたましいのなかに存在した緊張のことです。おそらく神は、何かを意識すればたちまちにして非常に肯定的なものを創造するでしょう。でも、もしも神がサタンを自分の息子として意識化しないなら、神自身の暗い側面は人間に投影される可能性があります。神は人類への恨みを世界の破滅というかたちで解き放つかもしれない。結果として神は、ユングアインシュタインを、そういう破滅を引き起こした張本人として非難するでしょう。彼らはスケープゴートになるわけです。

これは「アクティブ・イマジネーションの世界」のP298からの引用だが、あるクライアントの手記の中から、彼女の内的対話を抜粋したものである。

おそらく、「破滅を引き起こした張本人としてスケープゴートになる人」の系列には、ユングアインシュタインに並んで、ネットに関わる大物も誰か名をつらねるだろう。

集合的無意識」に接することは時として非常に危険を伴なう。ネットは、そういう危険な領域を解放しつつあると思う。「もしも神がサタンを自分の息子として意識化しないなら、神自身の暗い側面は」ネットの中に現れてくるに違いない。「神はこの恐しい仕事を抑圧したくて」匿名掲示板を生むだけのテクノロジーを長い間抑圧してきたのだと思う。きっとブログなんていうものは「神に呪われている」はずだ。

なぜなら、人は「自分自身の中にある対立しあうものの緊張(テンション)に耐えられ」ないからだ。

議論の中には、テーマとメソッドとテンションがある。テーマとメソッドは分析できて操作可能である。しかし、議論はそういう安全なものだけではできていない。ネットは議論から、テーマとメソッドを剥ぎ取る。私は、ネットで議論を追う時に、多くの場合、そこに丸裸のテンションを見て、非常に動揺する。その動揺を隠す為に、それをテーマとメソッドに帰着させようとする。しかし、それで自分の気持ちがおさまることはめったにない。議論の中には、テーマとメソッド以外のものがあるのだろう。

もうひとつ、現代において、テーマとメソッド以外のものが濃厚にあるのは、宮崎アニメだ。

宮崎アニメの中にも、テーマとメソッドとテンションがある。そして、多くの宮崎アニメ論は、作品をテーマとメソッドに帰着させようと空しい努力を繰り返す。だが、どうしてもそういうやり方では論じることのできない、「テンション」がそこにある。宮崎氏は、「テンション」を安易に解決させずに、どこであれその行く末にとことん付き合っていく。それは大変な力技だと思う。村上春樹の中にも同じ辛抱強さがある。

それは、どれくらい多くの人が自分自身の中にある対立しあうものの緊張(テンション)に耐えられるか、これにかかっていると思います。

「テンションに耐える」ということのヒントが、そこにあるような気がする。