URLと「祭り」のある民主主義

id:sivadさんが、私の記事JMMの「中国で大ヒット中のアイドル発掘番組」についてのふるまいよしこ氏の記事との関連を論じておられます。その中で、中国の「新京報」という新しいメディアに載った許紀霖氏が引用されています。


投票自体は民主ではなく、民主の段階の一つでしかない。本当の民主主義は投票以外に透明な手順、平等な権利、自由な討論、反対分子に対する尊重と、一切の個人意思を超えた公平な規則が必要なのだ。その一切のすべてこそが『超級女声』民主に欠けている。

超級女声』とは、そのアイドル発掘番組です。その番組を巡る熱狂をひとつの民主主義の発現と見る見方に対しての批判のコメントです。私は、このような意見が発言者の名前つきで中国の新聞に載ることに驚きましたが、民主主義は単なる多数決ではなくて、次のようないくつかの理念をベースとしているという、この見解には同意します。

  1. 透明な手順
  2. 平等な権利
  3. 自由な討論
  4. 反対分子に対する尊重
  5. 一切の個人意思を超えた公平な規則

それで、このメディアに興味を引かれたので検索してみると、「新京報」が目指す第3の道という記事がありました。

この中で「まだ40歳という戴自更・新京報社長」は、このメディアの理念について次のように述べておられます。


新聞の責任感と責任意識を強調した。「新京報」は国家の政治制度と法律・法規を守り、社会主義の道徳と社会の雰囲気を尊重し、法治精神を呼びかけ、ヒューマニズムの精神を強調し、体制内においてメディアの権利を行使して、建設的な世論監督を展開し、社会の効率を優先する原則を実行し、責任ある態度と科学的な価値観を堅持してきた。報道の全てに責任を負うことを強調してきた。新聞発行の上において、批判だけに重点を置きその効果を注視しない都市報の類の弊害を克服した。

これは、上にあげた5つの理念とは別のレベルの話です。理念を実現する為の「手段」として、これまで最もよく用いられてきた考え方を代表していると思います。マスコミ及び知識人(エリート層)が無知で判断力の劣る大衆をリードするべきである、というものです。

これは手段ですから、理念のような絶対的な真理ではありません。理念を実現する為の手段として、特定の環境の中でどの程度実効性があるのかによって、相対的に評価されるべきだと思います。

メディアが印刷媒体に限られている場合には、政治的な議論を、実質的に少数の印刷物を大量配布することで行なうしかないという技術的な制約があります。大量配布される印刷物は影響力が大きく「ツッコミ」が入れにくいものです。この条件の元では、倫理と知識の両面で大衆の上に立つエリート層が必要で、印刷物は、エリート層のコントロールを受ける方が、民主主義の理念の実現に有利です。

中国の民主主義がどういう段階にあるのかは、難しい問題ですが、中国のおいてこのような倫理性に重きを置く指導的メディアが重要な役割を果たすことは充分あり得ると思います。

しかし、技術的前提が変化すれば、その役割も変化すべきです。また、このプロセスは、ハーベイロードの仮定と同じく、エリートが無私で我欲を抑制できる存在でない限り、民主主義の理念を実現する方向には機能しません。

そして、エリート指導層の無謬性は、絶えず確認されるべき前提条件であるはずなのに、それを開示して承認を得るどころか、無謬性を証明することが目的に転じてしまう危険があります。

ネット以前の日本の政治プロセスは、そういう意味では典型的な失敗例でしょう。

だから、今、既存の「手段」の部分を破壊する強い動きがあるのは当然だと思います。小泉さんが乗っかっているのは、その破壊のエネルギーでしょう。それが「手段」を再構成するのか「理念」まで一緒に破壊するのか、そこは慎重に吟味する必要があります。

そういう観点から、ネットを民主主義の「理念」を実現する為の、新しい「手段」として見る場合、その最も重要な特質は、全ての意見と意見の関係が必要に応じて個別に把握できるということだと思います。

少数の印刷媒体で参照される議論と、それに対する信任投票というシステムでは、投票される側には顔がありますが、する側は匿名の集団です。間接的に投票の対象となる、議会やマスマディア上の議論には、個別性があります。しかし、その投票はマスとして評価されます。投票は匿名で、Aさんの一票もBさんの一票も区別できません。その結果は、数としてのみ把握されます。

しかし、ネット上の議論においては、リンクやブックマークや掲示板のageという行為は、一面では数の力が支配するマスの行為ですが、リンクする主体にも個別性があります。ブログからのリンクが典型ですが、リンクのひとつひとつに顔があるのです。

技術的に言えば、全ての政治的発言にURLが付加されていて、多くの意見が、URLへの参照=リンク(やブックマーク)という行為によって行なわれるということです。その行為自体にもURLがついていて、それは再帰的に、他から参照されます。「URLを参照する」という行為は、個別的な行為であって、アジテーションによって扇動するという行為とは根本的に違うと思います。

これは現段階では、完全には実現されていません。例えば、マニュフェストより国会議事録を読もうという意見があって、これには全く同感ですが、現状の国会議事録はWEBドキュメントとしての扱いやすさを考慮してあるとは言えません。

少し脱線しますが、「はてな国会議事録」とかあればいいと思います。全ての発現に個別のURLが付加されて、トラックバックを打てて、議員や政党やイシューやキーワード等、さまざまな視点で一覧できればいいですね。さらに言えば、コメントで教えていただいた、Project Synvieと連動して、映像や音声もそこから参照できればもっといいですね。

まだ、「はてな国会議事録」は実現していませんが、時代は明かにその方向に向かっています。つまり、個としての自立性が状況に応じてマスの力として統合化され、また必要に応じて、分解されて個として批判をを受けるという、新しい政治プロセスが実現されつつあるのです。

そして、URLへの参照はシステム的に集積できるので、フォーカスが集まる所についての情報が機械的に提供されます。時にそれがフィードバックループになって、いわゆる「祭り」が発生します。2ちゃんねるのフローティングスレッド方式は、最も原始的な仕組みですが、はてなブックマークのトップページ等のように、注目点を提供するシステムはたくさんあります。特に重要な注目点はより多くの人から言及され、より注目を浴びます。この自然発生的なエスカレーションの仕組みが、民主主義の新しいプロセスの中では重要な役割を果たします。

「祭り」の対象となった議論は、さまざまな観点から検証されますが、同時に、そこから参照されている意見、そこを参照している意見も、「祭り」の一部として批判の対象となります。関連する議論を多くの人が参照して、重要な論点が発見された時には、その論点もまたエスカレーションされます。

従来のマスメディアを前提とした大衆扇動のテクニックで「祭り」を起こすことは可能かもしれませんが、そこに重要な虚偽があった場合などは、その扇動された視線が、そのままそれを批判する意見に向かいます。特定の意見が外部的な攪乱要因で注目を集めた場合に、同時にその意見に対する反対意見にも注目が集まるわけです。「反対分子に対する尊重」という観点からすると、これは重要な性質だと思います。

例えば、私の子供が先日「ワタヌキを見た」と言っていました。うちの子供にとって「ワタヌキ」とは、第一にこのマンガの最後のコマに登場する印象的なキャラであるわけですが、このキャラのモデルとなった人物をテレビで見て「ソックリだった」と喜んでいるわけです。

そして、ついでのように「で、この人は何を言ってるの?」と聞くので、国民新党の主張を簡単にレクチャーしました。(「カイサンとはどういう字なのか?」とか聞いてくるレベルの相手ですから、このブログ書くよりずっと苦心しましたが)

もちろん、私の説明では公平性に欠けてはいるでしょうが、一応、綿貫氏側からの見方と小泉さんからの見方の両面から説明したつもりです。

こういうことがいろいろな形で起こっているのだと思います。小泉首相が起こした「祭り」は、反対意見を圧殺するどころか、このように従来見向きもしなかった層にまで、その意見を届ける役割を果たしているわけです。

造反議員を除名し新党結成に至らしめるということは、議論が政党対政党の公開されたプロセスで進むわけです。自民党の密室でなく、議論に注目を集めることを意図的に選択したという点で、小泉首相の手法はアジテーションというより、「祭り」志向だと思います。朝日新聞的でなく朝目新聞的です。

そして「祭り」は、多くの参照しあうURLで構成されていて、分解可能です。いつでも、個別性のレベルに降りて、議論の詳細をチェックすることが可能であり、多くの場合、実際にチェックされていると思います。

この「祭り」とURLで構成された新しいプロセスと、エリートとマス媒体で構成された古いプロセスの、どちらが民主主義の理念を現実的に実現できるか、それが議論されるべきだと思います。

(補足)

もちろん、新しいプロセスにも問題点はあります。現状では、Google2ちゃんねるの中の人が何を考えているかはわからないので、「一切の個人意思を超えた公平な規則」「透明な手順」が確保されているとは言えません。

また、それを明示的に確保する努力は、特定サイト内のひとつのアルゴリズムとして実装されることになるので、ここで論じたような意味で、そこに巨大な権力が集中するという問題があります。

これは、ちょうど古いプロセスにおける、エリートと利権の癒着に相当するものです。マスコミ、官僚、審議会政治において繰り返されてきた問題で、政策の決定を左右するプロセスに食い付いて、何とかして悪いことをしようと知恵を絞る人はいるものです。ただ、「無私なエリート層」はもし存在すれば、民主主義の理念に明らかに貢献しますが、恣意的に悪人に利用されることのない「無私で雑音のないアルゴリズム」は恐しい権力にもなります。そこに重要な違いがあることも注目すべきだと思います。