シェアを拒否する身体感覚とmobile2.0、鍵はエビちゃんの歩き方

moblie2.0というコトバは、こちらのエントリーから

これを図式化すると、

シェア指向 囲いこみ指向
身体感覚無し Web2.0 旧式マスメディア
身体感覚有り mobile2.0 ケータイ

それで、この枠組みの縦を区切る線と横を区切る線のどちらが強いか?という話になると思う。


ちょうど、こういうエントリーもあって

私の図式にあてはめると、y-iwebさんは、縦の区切りより横の区切りの方が本質的でよりラディカルだと見ている。つまり、(Web2.0+旧式マス)が(mobile2.0+ケータイ)によってぶっとばされつつあると。

渡辺保史さんは、シェア指向+身体感覚による「フィジカルな世界の豊穣化」にフォーカスを当てているが、ケータイ→mobile2.0の壁とWeb2.0→mobile2.0の壁の高さを同じように見ているというか、どちらもすんなりmobile2.0に進化していくストーリーを描いているように感じる。

私は、ケータイ族とネット族の断絶の本質はシェア指向の有無だと思う。というか、ケータイ族には強烈にシェアを拒否する強い傾向があって、これは技術では絶対乗り越えられない壁だと思う。

だから、Web2.0がmobile2.0に吸収合併されることはあっても、ケータイ族Web2.0が合流することはあり得ないと見る。

むしろ、ケータイ族に金やリテラシーやパソコンを与えれば、mixi使いに進化していくだろう。

だから、これからの最大のディバイドは「シェア指向の有無」、これですよ。

そして、ポイントは、ケータイ族がシェアを拒否するのは、思想ではなくて彼らの身体感覚であるということ。

それで、気になるのが(これを言うと相当読者を失うかもしれないが)「エビちゃん」っていう人。あの子、可愛いしセンスもいいけど、モデルなのに歩き方が変だと思う。あの歩き方が可愛いと思う若い人の身体感覚には、ついていけない。全くの独断と直感のみで言うが、身体感覚として「シェア」を拒否する感覚に、そこが関連しているのではないだろうか。

別に普通の人の歩き方がヘンでもおじさんは全然かまわないのだけど、モデルの歩き方に鈍感なのはまずい。いや、鈍感なのではなくてむしろあの歩き方に若い人は惹かれているのだろう。そう思った時、はじめて、絶対に越えられない世代間ギャップというものがあるのだなあと、おじさんはとうとう観念しました。

しかし、「シェア」、つまり、誰もが見える所に情報や意見や情念を置くというのは「公共性」というものの原点である。すなわち、「シェア指向」の消滅=「公共性」の消滅であって、これはいいんだろうかと、どうしても思ってしまう。