オレオレ正統性とメディアの自己言及

正統性の始点を自分自身に置くものを「オレオレ正統性」と呼ぶことを提案したいと思います。

もちろん、これはオレオレ証明書からの類推ですが、両者にはかなりよく似た構造があるからです。

政治的主張においては、正統性の連鎖ということがあると思います。例えば、ある政党の候補者に投票するという行為を、その政党が候補者を公認していることを根拠に、その候補者に正統性を与えるとみなすことができます。そして、その人にとってのその政党の正統性の根拠は、綱領とか活動方針に見られる倫理的な主張であって、その倫理的主張が正しいとみなす根拠をその人自身が持っています。

つまり、倫理的な原則→政党の方針→政党→候補者という「正統性の連鎖」が存在します。誰にでも、個人的に持っている倫理的な原則があって、これはルート認証局に相当します。SSLにおけるサーバ証明書において、ルート認証局から特定のサーバに至る「信頼の連鎖」とルート認証局に与える信頼の根拠は、違うシステム、違う原則を基盤としています。

同様に、倫理的な原則に与える正統性と、「正統性の連鎖」によって付随的に生じる正統性は、違う性質があります。

このような倫理の体系を意識的に言語化する人はめったにいませんが、私は、ほとんどの人がそのような二階層のシステムを無意識に持っていると思います。

例えば、ワンマン企業の社長が「俺が正しいと言うから正しいのだ」と言ったとします。彼が正統性の始点としているのは「俺が正しい」ではありません。彼が正しいのは、経済的な従属関係の中で自分が優位に立っているからです。ですから、彼も取引先との力関係の中では、自分が正しいと思えないことを正しいと受けいれることがあるでしょう。

つまり、彼の正統性の始点は「強い者が正しい」だと思います。そこが絶対的に動かせない原則であって、その上に、「俺が強い→俺が正しい」という正統性の連鎖が発生しているわけですが、これは状況によって変化する相対的、一時的な真実です。だから、取引先との力関係で「俺が強い」という仮定が成り立たない状況があったら、「俺が正しくない」というそこから派生する結果を彼は受け入れるのです。

つまり、彼の「正統性の連鎖」のシステムの中では、彼自身が相対化されています。

メディアにおける批判は、特定の倫理的な体系、「正統性の連鎖」のシステムの中でなされます。その場合、正統性の始点やそこから派生するシステムはそのメディアごとに多様ですが、多くの場合は、そのシステムの中で、そのメディア自身も相対的な位置に置かれています。

例えば、国家のシステムの権力の体系として見る傾向の強いメディアでは、自分自身の正統性は、権力の一部として与えられるということを意識しています。読売新聞が憲法改正の試案を発表すること等は、その現れではないかと思います。この場合、その試案の正統性は、ふだん、読売が見ている「国家」というシステムの中で、その一部として相対的に確保されています。もし、読売新聞がこの試案に対して批判を受けたとしたら、「国家にとってよい試案である」と対抗するか、「国家にとってよくない試案であった」と反省するでしょう。どちらにしても、読売が持っている正統性の連鎖システムの中で、自分自身の位置が相対化されています。

日経新聞は、社会を私企業の集合として見るので、日経の紙面にも私企業の活動という側面が濃厚に見られます。例えば、「マッチポンプ的な記事が多い」という批判を日経に行なった場合、日経は、「(私企業の集合としての)日本(経済)にとっては有効であった」という自己弁護をするのではないかと想像されます。この場合も、「儲けることが正しい」という正統性の始点に対して、自己の位置は相対化されています。

このような意味で、朝日新聞の独特な所は、自己言及する際の視点が、他者に向けるものと根本的に違う所です。自己弁護の為の無理な正当化はどのような組織でも行なうと思いますが、それが、朝日のよって立つ倫理的な基盤と根本的に矛盾する、という所が独特です。

鳴かぬなら鳴いたと書いてすりあわせに引用した、953氏、962氏の発言は、その点を明解に指摘していると思います。

 From: [953] 名無しさん@5周年 <>
これで回答をしました、というのなら、
この間の岡田に対する小泉の答えに対して文句を言うなと

From: [962] 名無しさん@5周年 <>
>>953
なるほど。
「危険地帯に行かない自衛隊がいるのだから、そこは安全地帯なのです」
「事実しか報道しない朝日新聞なのですから、書かれた記事は事実なのです」

朝日新聞が、外部を批判する時に用いる論理をどのように展開しても、現在の朝日新聞の対応(質問に対する実質的無回答)を正当化することはできないと思います。


jounoさんが、私の記事に対するコメントの中で、


それを主観的にただしくないことをやっているのだとみなすには、きわめて慎重であるべきだと思います。

とおっしゃっていますが、これには同感です。

この不整合が「主観的に正しいこと」であるとしたら、どういうことになるかを考えました。その結果が、ここで述べている「オレオレ正統性」という観点です。

つまり、朝日新聞が自己言及を頑なに拒否するのは、朝日新聞のよって立つ倫理の体系の中で、自己が特別の位置にあるからだと思います。自己が正統性の始点となっているので、相対化できないのです。

このような意味で、「オレオレ正統性」的な人というのは、朝日新聞以外にもいるような気がします。そして、私は「開かれた対話」という場合には、「オレオレ正統性」の人との対話も含まれると思っています。それは、ひとつのテストケースでもあります。

もちろん、それは非常に困難なことですが、「オレオレ正統性」という観点は、逆に、私が自分の立場を相対化して、「オレオレ正統性」との接点を持つための足場となると考えています。

つまり、「正統性の始点以外については議論をするけど、正統性の始点に関する批判は受け入れたくない」という形で一般化すると、私と「オレオレ正統性」の人を同一の枠組みで理解することができるということです。

こういうテーマを考える時の、私にとっての正統性の始点は「論理的で客観的なものが正しい」です。朝日新聞が、非論理的で主観的な言い訳に終始しているのを見ると、私は感情的に不快になります。それは、その主張が私の「正統性の始点」に対する攻撃に感じられるからです。

つまり、「正統性の始点を攻撃されると、不快になり攻撃的になる(沈黙する)」という反応は、私と朝日新聞に共通しています。

もちろん、両者の正統性の始点を比較した場合、オレオレ証明書の信頼性と正規のサーバ証明書の信頼性の違いに相当する違いはあると思います。しかし、どちらも「正統性の始点」を持つという点では同じです。そして、「正統性の始点」同士の比較は、「正統性の連鎖」のシステムの中では解決できません。ルート証明書の信頼性は、「信頼の連鎖」のシステムでは証明できないことと同じです。

そして、両者の本質的な相違点は、自己言及ができるかどうかだと思います。あるいは、自己言及と外部への言及の一貫性です。読売新聞や日経新聞の持つ正統性の始点や倫理的体系には、(上記の例は誇張だとしても全体的にそういう傾向はあると思いますが)、私は必ずしも同意できませんが、自己言及と外部への言及の一貫性があるという点に関しては、一定の信頼性を持てるし、対話することに困難を感じません。

ですから、私が朝日新聞に望むことは、「自身の倫理的システムの範疇で自己言及することで、自己の正統性の始点の一般性を示す」ということです。それができない限り、私は朝日新聞を「オレオレ正統性」と呼び続けるでしょう。ただ、それは、自分と相手の根本的な相違点を明解にして、そのような倫理的体系との対話が可能なのか模索する為でもあります。