正統性の始点
「朝日新聞が正しいと言うから朝日の記事は正しいのだ」というのが、朝日新聞が繰り返し主張していることです。朝日の正統性の根拠というか始点は、「朝日新聞は正しい」ということにあります。
それに対して、2ちゃんねらや朝日を批判するブログは私も含めて、客観的な証拠を元に論理的に考察して、「朝日新聞は間違っている」と言います。この主張の正統性の根拠は、「我々の主張は論理的であるから我々が正しい」つまり、「論理的で客観的なものは正しい」です。
さらに「なぜ、論理的で客観的なものは正しいのか」と聞かれたら、私は「論理的で客観的な主張は、推論の過程を共有しやすく納得しやすいから」等と答えるでしょう。 それではさらに「共有しやすいものはなぜ正しいのか」 と聞いたらどうなるか。
こういうふうに、とことん議論の根拠を問いつめられたら、最後には私もキレて「俺が正しいと言うから正しいのだ」と言う地点にたどりつくでしょう。
あらゆる主張には、これ以上説明できない、正統性の始点が存在します。
「そもそも朝日新聞は絶対正しい」という始点と「客観的で論理的な主張は正しい」という始点では、明らかに後者が優れているように思えますが、始点があることでは同じです。
そして、これが学問の話であれば、結論を出す必要はありません。
- 「そもそも朝日新聞は絶対正しい」という所からスタートすれば「朝日の報道には問題がない」という結論が出る。
- 「客観的で論理的な主張は正しい」という所からスタートすれば「朝日の報道には問題がある」という結論が出る。
この二つの主張は共存可能です。
しかし、政治(報道も広義の政治活動として)というのは、結論を一つにしなければならないので、この二つの主張のうちどちらかを取らないといけない。それは、究極的には「正統性の始点」の取りあいです。「正統性の始点」を暴力的に奪いあうゲームです。
朝日新聞が、「そもそも朝日新聞は絶対正しい」という公理を正統性の始点として採用した以上、徹底してそれを押し通すしかないわけです。だから、間違いを絶対認めない朝日新聞も実は政治活動としては論理的なことをしているし、本質的には批判者も同じことをしているわけです。朝日新聞と批判者の違いは、質的なものではなくて量的なものであるということは、よく意識しておくべきだと思います。
そして、あらゆる政治活動には「正統性の始点」 があると思うのですが、創発的権力にはそれが無いような気がします。だから、政治的に創発的権力を止めることはできないのではないかと。それでいて、創発的権力は政治的な効果を及ぼしますから、この非対称性は不気味だなあと思うのです。