「性急に規範的な何かを欲しがる人」と「『中庸』としてのラジカリズム」

svnseedさんが、


そういう主張をする人達ってのは結局何が言いたいんだろう、と考えたときに、要は彼らは規範的な何かが欲しいんじゃないかな、と思ったわけです。fact だけでなくapplicationの話が聞きたいのにそれは与えられない、だったら自分達ででっち上げてしまおう、そういう流れなんじゃなかろうか、と。

と批判しているものを、仲俣暁生さんが「中庸」としてのラジカリズムと呼んだものを対置すると、きれいに図式化できるような気がする。

また、社会科学における人間で、他ならぬ大塚久雄先生が


30歳近くになるまで、ヴェーバーという学者はなんとも奇妙なことを言ったものだな、くらいに思って、自分の論文でもそういう趣旨のことを書いていたわけです。(P118)

とおっしゃっているラジカルさを、ヴェーバーは確かに持っていると思う。これも「中庸」としてのラジカリズムではないだろうか。

レッシグヴェーバーは、方法論においては対立しているような気がするが、この部分の学者としてのスタンスみたいな所に通底するものを感じる。