リアル「時計仕掛けのオレンジ」に関する倫理学

脱力日記で指摘されていることだが、私も(言及されている記事を書いてから)ここで言われる前に、この映画との類似に気がついて慄然とした。

あれが「治療」として本当に機能してれば、本人にとっても救いで、話が全然違うんだけど、犯罪者を「犯罪恐怖症」にするために自分の犯罪を苦痛が伴う形で再体験させるというものに見えた。「時計仕掛けのオレンジ」と違うのは、薬や電気ショックを使わない臨床心理的手法だけで構成されていたことだ。

問題のセッションは、カウンセラー二人と受刑者数人のグループワーク。そのプログラムの発案者で全体をリードする心理学者は、マジックミラー越しにグループを観察していて、時々、カウンセラー二人に指示を出す。心理学者がグループに一切介入しないのは、カウンセラーの育成も含めてマニュアル化して、自分がいなくても機能するシステムにしようという意図だと思うが、見ていて不気味だった。

本当に何でもマニュアルにしてしまう国だ。

「治療」なのか「強制的矯正」なのかは、外部の者がテレビでチラっと見ただけでは決してわからない。ただ、あそこまで嫌がるクライアントに再体験を強要するのは、塀の外では倫理的に許容されないことではないのか。そのマニュアルが一人歩きしだした時に、「時計仕掛けのオレンジ」に変質してしまう可能性があると思う。

要するに「人格の変容を強制する技術」が完成したとして、本人の自発的意思なしにそれを強制することは倫理的に許されるのか、ということか。

本人が希望してやった場合でも、「人格の変容」にはすごい苦痛が伴なう場合がある。臨床心理学にはそれだけの力があって、それに見合うだけの成果も多くある。自発的にそういう「人格変容」という「治療」を体験した人は、それをプラスに受け止め、感謝しているケースが多いかもしれない。

犯罪者にそれを強制することで、たぶん本人も生きやすくなる。出所してから長期的に評価しても「人格変容」してよかったと思うだろう。

しかし、「人格変容」後の人の評価で「人格変容」前の人が受けた苦痛を正当化できるのだろうか。「死刑になってもいいから俺は犯罪者のままでいたい」という希望はかなえられないのか。

まあ、こういう懸念は、全て、その手法の完成度によるので単なる杞憂で終わるかもしれない。あれが、その心理学者が指導できるその特定の刑務所でうまく進んだということと、全米各地の刑務所で同様のプログラムを実施して、同様に客観的な効果が得られるかは別だ。ただ、リーダの心理学者はそこは完全に意識してやってるように見えたので、「人格変容」技術とそのマニュアルが、かなり完成に近づいているようにも私には見えた。

リアル「時計仕掛けのオレンジ」に関する倫理学が必要とされる日も近いかもしれない。死刑を廃止してこれを導入するのか、これを禁止して死刑を存続するのか、どちらもやめて犯罪者を放置するのか、「人格変容」後に「死刑」という刑(アサハラとかタクマとか某にはこういうのが必要かも)を創設するのか。何が人道的に望ましいこと、正しいことなのか。