劣等感とヘイトクライムの間

劣等感を感じている人は、自分を優越なものと同一視して、誰かをあるいは何かを侮蔑してバランスを取ろうとする。人間は、そういう欲求を不可避的に持ってしまうものだと思う。

嫌韓流はまだ読んでないけど、ネットの反応を見た感触では、非常に微弱ながらそういう要素を持っているように感じる。全体的には客観的で冷静な記述に終始している中で、優越感をくすぐる表現が、ほんの少しづつ味付け程度に隠されている。そういうマンガであるように感じる。

それは、スイカにかける塩のようなもので、成分としてはごく微量ながら味わいや人気には大きく作用する。塩が濃すぎると逆効果だが、ほんの少しだけかける所がポイント。

朝日新聞は、昔から他紙と違う味わいを持っていたと思うが、それもこれと似ていて、読者に優越感を感じさせる表現が劣等感の強い人にアピールしていたのではないだろうか。

皮相的な科学的社会主義というのは、こういう心性と相性がいい。つまり、「科学的」であるから意見の違う人に「おまえは非科学的で遅れている」といばることができる。しかし社会の事象というのは複雑で簡単には検証できないから、自分の説が実証的に崩される心配が少ない。常に詭弁の余地が残っている。

本物の科学であると、新たな実験結果で自説が覆された時に手当のしようがない。本物の人文学であると、「独善的にいばるおまえが一番馬鹿」と言うためのロジックがいろいろそろっていて、これも危っかしい。

朝日新聞科学的社会主義というのは、劣等感にさいなまれている人にとっては、長年の間、非常に使い勝手のよいツールであったわけだ。

ただ、劣等感が元であっても、一定の節度があれば、それは人類の役に立つ。朝日新聞社会党社会主義というのも、政府に対する批判者、監視役としては、一定の機能を果たしてきたのだと思う。

特に、それが抑圧されていたり逆境にある場合には、「自分は科学的だから絶対正しいのだ」という信念は、権力と戦う為の武器になる。しかし、権力を獲得した者が「自分が絶対に正しい」という信念を持つと、それは簡単に暴力につながる。それは、朝日新聞嫌韓流(から派生するであろう嫌韓ブーム)について、同じように言えることではないかと思う。

そして、「劣等感でヘイトクライムする奴は馬鹿」という優越感も、劣等感をくすぐるものだ。そういう優越感に自分が縛られている人も多いと思う。

「劣等感でヘイトクライムする奴は馬鹿」だと私も思うけど、それが優越感になって、人を見下すような言い方になっては、同じことだと思う。劣等感から抜け出すことは簡単なことではない。

そこで偉いなあと思うのが、小林よしのり。彼の書く論敵の醜怪さはアートだと思う。なぜなら、そこに小林自身の醜さがえぐり取られていて、彼自身がそれを知りつつやっているからだ。

朝日新聞がズルいなあと思うのは、これの正反対であって、その表現の中に自分がいない。自分は傷を受けないように逃げ回っていて、それでいて他者を糾弾しようとする。

糾弾するなんていうのは、どうしたって醜いもので、それを知りつつそれをやらずにはいられない、「業(ごう)」の行為であると自覚してやるべきものだ。自分が表現の外に立って「これは科学的に絶対正しい」なんていうのはインチキだ。

そういう業の中に自分を表現するなんてことは、天才よしりんにしかできないことけど、自分が言ってしまったことから逃げないことは誰でもできるし、ヴェーバーとかちょっと齧れば、認識論で価値判断の責任から逃げることは無理だとすぐわかる。

誰も言ってくれなかったから自分で言うけど、重層性のときほぐし競争っていうのは、日本が勝っていい気になる為の問題設定だと思う。私は、それで優越感にひたりたいから、そういう競争のルールを決めようとしている。

ただ、これで中国韓国の人が「ムキーっ」と怒って反撃してくれたら、人類はすごく進歩するからいいんではないかと思うけど、もともとは、自分の劣等感を日本の潜在的な知に仮託して補償しようとしているだけだ。