人類は新しい「公共空間」に適応するしかない

インターネットの普及が、「うわべ」と「コッソリ」の間を、パブリックとプライベートの境目を、奇妙な形に捻じ曲げてしまった。炎上は、この捩れがもたらす混乱として在る。私が居酒屋で友人に話すならば何ら問題にならないような話も、ブログに書けば炎上の火種になる。では、居酒屋でその話を聞かされた友人は、私の悪事を咎めなかった不道徳な人間として責めを負うべきなのか。

これは極めて重要な問題提起だと思う。

「『うわべ』と『コッソリ』の間を、パブリックとプライベートの境目を」うまく区別できないこと、人間社会の中にあるその構造をシステム化できないことは、インターネットの欠陥であると私も昔から思っていた。

しかし、この欠陥は、待てば自然と技術が進歩して正されるような性質の問題ではないことにだんだんと私は気がついた。

デジタルな情報というのは、コピーすることがローコストであり、しかも、そのコストは年々低下していく。この傾向はデジタル情報というものが根源的に持っている性質である。

たとえば、「ここだけの話」をすぐ他に流してしまう人は、ネット以前から一定数存在していた。しかし、そういう人が情報を伝達するにはコストがかかる。「ここだけの話」を別の人に広めるには、「ねえねえちょっとちょっと」と誰かをつかまえ、一定の時間を費す必要がある。しかも、極めて明確に「この人は『ここだけの話』を他言する人だ」という証拠を残して伝達行為を行なうことになる。

このコストの為に、そういう行為には抑制がかかるし、その抑制がきかない欠陥のある人は淘汰され、大きな影響力を持ち得ない。

レッシグの言葉で言うと、現実世界の情報伝達に関わる「アーキテクチャ」が「ここだけの話はなるべく他に漏らさない」という「規範」を支えていたのだ。

ネットのユーザが増えても、大多数のユーザにとってその「規範」の感覚は変わらないが、ネットによって「アーキテクチャ」が変わってしまった。

マイミクをいかにきっちり管理していても、「友達の友達」の中に自分と「規範」が異る人が一人もいないと断言できる人は少ないだろう。誰か一人でも、準拠する規範が違う人がいれば、その人は極めて容易にmixiの中の発言を2ちゃんねるにコピーできる。それを魚拓として保存したりする為の学習コストは年々低下している。

その「規範」は大枠では友達同士の中で一致しているし、日本人全員と比較したって一致している部分の方が多いだろう。それは今も昔も変わらないが、違いが全くないということはあり得ない。

ネットの「アーキテクチャ」はそのわずかな違い、それによって起こる摩擦を物凄い勢いで拡大するのだ。

そういう種類の新しい「公共空間」に人類は強制的に接続されてしまったのである。

この「公共空間」は、調整次第でいかようにでも形を変えてくれるのだけど、あらゆる課題について少数意見を常に尊重する。「それは晒して炎上させるべきだ」と考える人が一人でもいれば、「公共空間」が尊重するのは、多数派の意見ではなくて「晒せ」という少数派の意見なのだ。

ソフトウエア技術者は、常にユーザの矛盾だらけで無法な要求仕様と格闘しているのだけど、時に逆ギレして、ダメな仕様だとわかっているものをそのまま実装してしまうことがある。もちろん、しっかり議事録とドキュメントを残して、後で文句を言われた時に「これはあなたが望んだ結果ですよ」と言うだけの準備をしておいてからだ。

神様は、そういう意地悪なSEのように我々にインターネットというものを与えた。コピーにコストがかからないデジタル技術というものを与えた。

「さあ、君たちは、これに頼らないで生きてけるかな」そう言って神様はせせら笑っている。

でも、たぶん、この新しい「公共空間」は、我々が書いた仕様書通りなのだろう。人は結局、心のどこかでは、自分と違うタイプの人間に出会いたくてしょうがないのだ。自分と違う人間に直面するということは、結局、その違いを通して自分とは何かということを再確認することであり、それを望んでいるのだ。

20倍カレーを「辛い、これは本当に辛い」とヒーヒー言いながら食うように、この「公共空間」とその中にあふれかえるDQNどもと、それを通して見えてくる自分の姿を楽しむしかないのだ。

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