デヴィルズ・ウィード


デヴィルズ・ウィードに憑かれている人はすぐに分かる。
なぜなら、そのような人は自分のアイデンティや自分が作りあげたものを手放すことができないからである。
自分のやり方に終着し、他のやり方に目が向かなくなっている師を、あなたはどれくらい知っているだろうか?
もしかしたら、あなたもそうかもしれない。
だが、シャーマンによると、これは別に致命的なことではない。
大切なのは、自分の盟友をできるだけ客観的に知ることである。

シャーマンズボディ(アーノルド・ミンデル)P128より。

最近、私の書くことに一定の評価を与えつつ懸念を表明する人が多くなっています。私も、自分の書いたものの読者の一人として、「評価」と「懸念」の両方について、よく理解できます。

私の書くことの面白さの中には、何か、知識や一定の方法論では表せないものがあるように思います。それは、ミンデルが「盟友」とか「力」と呼ぶものに近いのではないかと思います。単なる知的な枠組でない「何か」があるので、興味を持っていただける部分があるように感じています。

そしてミンデルは、そういう「力」には特有の危険性があるとも語っています。そういう力に支配されてしまい、その罠にはまった人間のことを「ファントム」という言葉で呼んでいます。私は、自分が「ファントム」であるとは思っていませんが、批判の言葉の中にそれと似たニュアンスを感じています。

もちろん批判の多くは、実証的な根拠をもとにした論理的な批判であり、表面的なレベルでは、批判によって何かの見落しに気づいて納得することもあるし、いややっぱり自分が正しいと思うこともあります。それを書くこともあるし、時間がなかったり悔やしかったり面倒くさかったりして書かないこともあります。

しかし、そのような表面的なレベルにはおさまらない、もっと深層の何かを批判されているような気がして、それに対して譲れない自分を感じています。そのモヤモヤっとした感覚が、上に引用したミンデルの言葉に一致するように、私は感じました。

私の言葉に対して反感や間違いというより、「うまく言葉にできない危うさ」のようなものを感じる人は、私の同じものを見ているかもしれません。そういう方には、上記の本が面白いかもしれません。私の中に見ているそういうものを、たぶん自分の中にも発見できると思います。

私は、自分の能力と時間の限界内で、なるべくまともなことを書いて、なるべく批判に正直に答えていこうと思います。これまでもそうしてきたし、これからもそれを続けます。それが「力と戦い、力を盟友とすること」とミンデルが言っていることなのかどうか、それはわかりません。ただ、批判の言葉とそれに対する自分の反応を見ていると、ミンデルが言っていることに近いような気がしています。

私の中には、力と別に危険性があるのではなくて、力と危険性が同居している、力が危険性そのものとして存在しています。だから、簡単に危険性=力を放棄するわけにはいかない。偏見や思いこみを、それが偏見や思いこみであるからと言って簡単に放棄することはできません。もちろん、はっきりと自分の間違いがわかったら、それを認め謝罪します。個別の意見を訂正することは簡単ですが、その元となった偏見を全て捨てることはできません。それをしたら、私は力を失ってしまいます。その力を自覚的に使えるかどうかが、私に与えられたチャレンジなのだと思います。

その戦いに勝てば、私はその力を盟友として使いこなし、それに負けたら私は「ファントム」として、力の奴隷となってしまうのです。どちらにしてもブログとしては面白いでしょう。