Winnyが要請する知のバトルロワイヤル
これは、netwindさんの言葉、イメージ、議論に対する回答です。この批判は、私のWinnyに関する文章だけでなく、このブログ全体に対する批判としても非常に重要なポイントをついていると思います。
というか、これを読むことによって、私は自分がこのブログで何をしたいのかについて、少しだけヒントを得ることができました。結論から言えば、私は、言葉の定義を壊して「イメージをぶつけあう議論」を提起したいと思っています。つまり、ここでnetwindさんが批判されている内容に関して、私は確信犯なのです。
netwindさんは、「costとbenefitを考えてどのように扱うべきか」を考えるべきだとおっしゃってますが、これは少し言いかえると「Winnyに関する議論を集約するための、ひとつの座標軸を見つけるべきだ」ということだと思います。私は、そのような考え方を進めていくと、ほぼ必然的に暴力、強制を伴なう結果につながると考えています。
Winnyは、いくつもの領域にまたがった問題を提起しています。
- P2Pという新しいソフトウエア技術
- ネット時代の無形物の流通はどうあるべきかという経済学的問題
- 匿名性と言論の自由という政治的問題
- 商業的権利やプライバシー保護に関する治安維持の問題
- ネット時代に遅れがちな法律をどう運用していくかという法律運用の問題
- P2Pファイル流通が俗なる空間から祝祭的空間に移行するという観点からの社会学的問題
最後のものは、私が独自に考えていることです。勉強中のことですが、自分なりに解説してみます。(私がベースとしている宮台さんの議論については、こちらで簡単に解説されています。また、この対談で詳しく述べられていますが、この抜粋にはあまり含まれていません)
社会学では「聖なるもの/俗なるもの」という区分によって社会を分析しようと考えます。経済や法律はその区分けの中では「俗なるもの」に属していて、こういう空間では、人間は合理的にふるまうことが期待されます。犯罪を犯すというのも合理的な行動とみなします。犯罪者はつかまる危険性を潜在的なコストとして考えて、犯罪を犯すことによるベネフィットが、それを上回る時に犯罪を犯すと考えるわけです。
そのように拡大した合理性でもとらえられない領域がどのような社会にも存在していて、それを「聖なるもの」と呼ぶようです。そして、「聖なるもの」にはほぼ必然的に常にペアとして「穢れたるもの」が付随しています。例えば、お祭りの夜店には、いろいろいかがわしいものが売られていますが、神社=聖なるものと夜店=穢れたるものが隣接しているのは、偶然ではなくて、人間には、そのように社会を認識する傾向があって、それに従って、社会はかならずそのような構造を持ってしまうということです。
現代社会は、基本的に「俗なるもの(合理性)」しか認めようとしない傾向があるので、このような構造が抑圧されゆがめられていますが、「俗なるもの」=合理性ではとらえられない領域が常に存在していて、社会全体の成り立ちに大きな影響を及ぼすということです。例えば、歌舞伎町に行く人は、何かの目的を達成するために行くのではなくて、(それだけではなくて)あの雰囲気を楽しみたくて行くのではないか、現代では失われた夜店的空間を求めているのではないかということです。
ネトランの煽り方とかを見ていても、Winnyは、非合法ファイルを安全に安価に入手できるというアピールよりは、歌舞伎町的、夜店的な空間として訴えているように見えます。何度も言っていますが、新作映画や良質のエロ動画を見る手段としてのコストパフォーマンスで、Winnyはそんなに割がいいのだろうか?ということです。
Winnyは、合理性を逸脱した所で人気を得た部分がある、そういう意味で、経済や法律におさまらない社会学的分析の対象でもあると思います。
それで、私は「市民」という言葉を、これらのたくさんの領域を連結する為のキーワードとして使っています。例えば、「市民」はソフトウエア技術者にとってはユーザだし、法律によって保護される同時に行動を制限される人でもあるし、経済的合理性をそなえた市場のプレーヤーでもあるし、社会階層にマッピングされた「俗なるもの」でもあります。
それぞれの領域が「市民」というものに、一定の制約を課していて、あたかも、これは変数を共有する連立方程式のようです。普通は、これらの議論は独立していて、変数を共有しない個別の方程式なので、その領域内部の議論で解くことができますが、Winnyによって、「市民」という変数を通してたくさんの議論が連結され、解けない連立方程式ができてしまったという感じです。
netwindさんが「costとbenefitを考えてどのように扱うべきか」とおっしゃるのは、私には、「これらの領域を全部統合して、ひとつの解を導くべき、あるいは、解と言わずせめて一次関数くらいに集約することを目指すべきだ」という風に聞こえます。私は、それが原理的に不可能なことに思えてしまうのです。
ここにリストアップしたのは、学問として形となったものをベースにした議論だけですが、それにしても、それぞれの領域の方法論は全く違います。哲学的に言うと、知というものは、世界全体に対して、一定の枠組みをあてはめ一部を切り落とすことで成りたっているものなので、それを強制的に連結することは、必然的にその枠組みの解体をせまるものであるということです。
だから、それに結着をつけるということは、どれかの枠組みが他を排除することしかあり得ない。それは、おそらく哲学的な問いとしては、過去に何度も行なわれてきたことですが、我々は、Winnyあるいはインターネットという具体的な「装置」を前にして、思弁的な架空の話ではなくて、現実世界の問題としてこれに答えなくてはいけない。それが私の基本的な認識です。
「闘争」という言葉を使ったのは、それが知的に解決できる問題ではないという認識があるからです。思弁的な問題ならば、それは「未解決の哲学的難問」として放置しておくことができますが、Winnyは具体的な問題です。だから、最終的には、どれかの枠組みが他を排除して押し切るような結着をつけるしかない。具体的には、何らかの法律が作られて、それによって誰かが矛盾に苦しむようなことになるでしょう。技術開発を阻害するような法律が作られて技術者やベンチャー経営者が悩むか、解釈の余地が大きい法律が作られて裁判のたびに裁判所が悩むか、P2Pやコンテンツ流通が徹底的に弾圧されて日本経済が悲鳴をあげるか、あるいは、もっと斜め上の予想を上まわる混乱か。
私は、どの枠組みからも「圏外」であるということをセールスポイントとしてブログを書いていますので、このような問題については、徹底してその困難さを訴えることを第一としています。なんとかして、議論をもっと混乱させたいと企てているわけです。netwindさんは、私のそのような半ば無意識的な意図を(半分)見ぬいて、それを批判されたのですが、私はそれを見て「そうなんだよ。俺のしたいのはこれなんだ」と思ってしまった、つまり、私は確信犯です。
ただ同時に、見えてきたその私の目的に対して、私はまだまだ力が足りないなあ、充分に議論を混迷させるだけの力が無いなあとも感じています。
言葉の定義が明確でないというのは、その一つです。もっと正確に議論の困難性を指摘するには、いろいろな言葉をもう少し明確に使う必要があると思います。
言葉の定義というのは、普通、特定の領域、知の枠組みに対応してできるものなので、普通に言葉を定義したら、その言葉を使った議論は、その定義の背景になる枠組みに制約されてしまいます。だから、このようなことを意図した文章で使う言葉を定義していくのは、簡単なことではありません。
そこは確かにイメージに頼って、ごまかしている部分があると思います。非常に困難なことですが、なるべくもっと明確に言葉を使うように努力します。ただ、それに成功したら、おそらく読んでいる人がもっと深く混乱するになると思います。
それと、ひとつだけ言い訳をしておくと、私はいつでもそのような立場を取るわけではありません。pullされる言葉に限って、そのように確立した知の枠組みを壊し、議論を混乱させる方向で文章を書いていきます。
誰かの依頼で別の所に文章を書くとしたら、それが必然的にひとつの文脈を産みます。例えば、Winnyについてコンピュータの雑誌に何か書くとしたら、プログラマーの立場からという限定した視点で、ここに書くことと全く違うことを書くでしょう。それは、法律や経済や社会全体を除外して書くということではありません。それらなるべく多く含んでいるが、プログラマという一定の固定した立場から書いたものになります。おそらく、netwindさんにもっとよい評価をしていただけるものになると思います。
そういう議論の価値を認めないわけではないし、状況が違えば、むしろそれが必然だとは思いますが、何の制約もなしに書くこのブログにおいては、こういう方向を追求していきたいということです。