歴史を引き受けて自分が変わるということ

くまりんが見てた! ? 田口汎氏の靖国神社批判を廻ってのコメント欄でくまりんさんの注目すべき発言を見つけました。


石原(莞爾)は軍人と言うよりは思想家でして満州事変を起こした人ですけれども、思想の基礎になっているのは日蓮主義なんです。僕を取り囲んだ先生方は、石原は特別な存在で日蓮主義からの逸脱であって異端であると。あれは日蓮思想ではないんだと言うものだから、いや違うと。僕は石原が満州事変を起こし、アメリカとの世界最終戦争に勝利するためには東亜が一つになって生産力を高めるのだという考え方、いわゆる大東亜共栄圏構想ですね。これにいたる思想構造は、そりゃ日蓮上人そのひとの思想じゃ無いけれど、当時の日蓮宗を含む明治新仏教の思想構造から生まれたんだと、石原だけが異端じゃないんだと。

石原莞爾の思想も日蓮の思想も私は全然知りませんが、これは、重要な問題提起だと思うし、私は、このくまりんさんの姿勢に共感します。

つまり、忌しき過去を、自分に関係の無い「異端」とか「逸脱」として切り離すのは、楽だし、いろいろ都合がいいと思います。

この場合だと、「石原莞爾は読解力ゼロの単なるバカ。奴が日蓮と言うのは全部誤読」として、石原莞爾日蓮を切離すか、「石原莞爾が狂ったのは日蓮のせいで、日蓮は危険思想」として、(日蓮+石原)と自分を切離すか、いずれにせよ、過去を切離して、自分をその外に置いて、そこから過去を批判するということです。

石原莞爾という思想家とまっこうから対峙してそれをするならまだ許せますが、そうでない限り、「僕は関係ないもんね」と言うのはインチキ。

くまりんさんは、歴史とのつながりを意識されており、その歴史の一部として、石原莞爾という思想家が日蓮に傾倒したという事実と、くまりんさんご自身が今現在仏教の実践をなさることとのつながりを引き受けようとされている、私はそう思います。

これは、仏教や思想史の研究をするから起こる問題ではなくて、そういうものには全く興味がなくても、全ての人が考えなくてはいけない問題ではないでしょうか。

自分の中に歴史があるということに鈍感な人が多すぎると思います。

「僕は21世紀のITの人だから歴史が無い」とか言って、それが事実ならいいのですが、実際には、言葉と社会のルールの習う段階で、たっぷりと善悪詰め合わせの歴史の空気を吸い込んでいるわけです。

自覚無しにOSを使うことの危険性で書いたように、Windowsを使っているという自覚無しにWindowsを使うことは危険です。WindowsというOSが再インストールできない宿命的なものであったら、それを自分の内なる問題として批判しなくてはいけない。

そして、くまりんさんは、さらにその為のひとつの方法論をも提示されています。


人は場所に生まれ場所に育ち場所に帰る。分かり易いし気持ちも落ち着く。場所を故郷や日本に置き換えるとより分かり易いかも知れません。愛国主義、あるいは日本主義とも言えるものでしょうか。しかし本当のところ人は生まれた場所に帰るわけではありません。時を経て自らを変えてまた場所に向かって歩むのです。故郷に帰る訳ではない。時間を経過して変化した自分が故郷へ向かって新たな旅をする。それを僕は時間的日本主義と呼びたい。

宿命だから日本の歴史を全肯定するのも、また別の安易な道です。そうではなくて、「時間を経過して変化した自分が故郷へ向かって新たな旅をする」こと、つまり、歴史を引き受けた自分が変化していくことが、本当に歴史を繰り返さない為に必要なことだと思います。