鶏肉のカシューナッツ炒め

これは、上の「もうひとつの飛行機の話」に書いた「不信」のイメージを明確にするために書いたストーリーです。Winnyにはあまり関係なくて、「冷たい怒り」につながるような話です。

前のほど面白くないので、あまり期待しないでください。

ストーリー

新人二人を誘ってひるめしに出る。

  • 「今日は俺がおごるから。中華でいいか」
  • 「あ、すみません。なんでもいいです」

テーブル席につくが、二人とも緊張している。

  • 「さあ、遠慮せずに好きなもの食えよ。何にする?」
  • 「いや、何でもいいです」
  • 「俺も何でもいいです。おまかせします」
  • 「だから、遠慮するなって。今日だけだから」
  • 「じゃあ、ラーメンで」
  • 「だからあ、そうじゃなくて」

しばらく押問答をして、ようやく二人ともメニューを見はじめる。

  • 「じゃあ、本当にいいですか」
  • 「いいよ。本当に好きなものたのんでよ」
  • 「それじゃ、遠慮なくごちそうになります。そうですね。俺は鶏肉のカシューナッツ炒め」
  • 「よし、じゃあ君は」
  • 「ええと、じゃあ、チャーシューメンとギョーザ」

「チャーシューメンとギョーザ」と聞いて、俺は少し悲しそうな顔をしてしまう。これは「若いものにおごってやった上司」を喜ばすための選択だ。そういうものを豪快に食ってみせると、上司としては気分がいい。彼は俺にサービスしているようだ。

それと比べて「鶏肉のカシューナッツ炒め」は、いかにも場違いで本音の選択だ。これだと俺は安心する。

そして、「チャーシューメン」君は、自分のサービス精神が空振りに終わったことに気がついている。「鶏肉のカシューナッツ炒め」君を見る俺の視線と、彼を見る俺の視線の微妙な違いに気がついて戸惑っている。

そして、彼は怯えてしまう。その怯えを表面に見せることなく、快活に談話しつつチャーシューメンを食べているが、その合間に俺の顔をうかがい、自分が何を読み間違えたのか知ろうとしている。

俺のような深読みをする扱いにくい上司では、あまりにも彼がかわいそうなので、俺は時間を巻き戻し、俺の代わりにもっと典型的な上司を登場させる。

  • 「じゃあ、本当にいいですか」
  • 「いいよ。本当に好きなものたのんでよ」
  • 「それじゃ、遠慮なく。そうですね。俺は鶏肉のカシューナッツ炒め」
  • 「よし、じゃあ君は」
  • 「ええと、じゃあ、チャーシューメンとギョーザ」

この上司は「鶏肉のカシューナッツ炒め」にけげんな顔をして、「チャーシューメン」に対して、いかにも「若者はそうでなくちゃ」という顔をする。「鶏肉のカシューナッツ炒め」君はけげんな顔に気づいていない。

これで「チャーシューメン」君も安心して飯が食えるだろうと思って、俺は安心して、ふと快活に談話しつつチャーシューメンを食べている彼の顔を見ると、彼は怒っている。彼の思惑どおりのプロトコルに従って「ガハハ、わかいもんはそうでなくちゃな」と言い、「若いもんに奢ってやった」気分を満喫している上司に対して、彼は憎しみの目を向けている。

解説

こういう暗黙のプロトコルに敏感な若者は、非常に快活な好青年に見えます。世間や共同体の価値観に非常に適応しているように見える。こういう人たちが、次代の共同体を支えていくだろうと安心してしまう。大人が「テレビで見ると今の子は何考えてんだかわかんないけど、実際に会ってみると、しっかりしたいい子もいるんだよね」と噂していたりする。

彼らのそういう演出は相当念入りです。例えば「音楽は何が好きか?」と聞けば「ケミストリー」とか言う。「サザン」とか「ユーミン」とか言うと演出あるいは迎合がバレバレなので、相手がギリギリ知ってそうな所を狙って落としてくる。「やっぱり今の人はああいうのを聞くのかね」と言わせて、「世代間ギャップ」を感じさせる。

あまりにも「ギャップ」がないと大人の側としてはかえって不信に思うんです。必要に応じてほどよいギャップを感じさせておいて、それでまた相手に合わせる。

大人としては「ああ今日は若者とコミュニケーションした」という実感にひたれるんです。彼らは無意識にそういうサービス精神を発揮してしまうわけです。

ところが、彼らは自分がスマートに従っているそういう複雑な錯綜したプロトコルを愛してはいない。むしろ憎んでいる。自分が従う規範を憎みつつ、必要以上にそれに従っている。

これは完全なフィクションです。少し前にこれと全く違う状況で、私はこういう捻れた憎しみのようなものを感じました。最初は自分の思いこみだろうと考えていたのですが、いったん気になって来るとそういう人があちこちに見えてくるんです。それも、職場やそれにつながる場所ではなくて、伝統や共同体的価値観が残っている(とされている)場所で。(さすがに多少さしさわりがあるので、これはわかりやすくは書けません)

それほど自分の見たものに確信があるわけではなくて、単なる思いこみや妄想のような気もするんですがちょっと気になる。

ただ、もし自分の観察が部分的にでも当たっているなら、日本の伝統、共同体、世間、みたいなものは、見ためより激しく内部から腐っていることになります。テレビでは、良い若者と悪い若者を対比して見せるんですが、そこで良い若者に分類されているうちのかなりの部分が、実はこういう気持ちを持っているのではないかと思うことがあります。

「京都主義」的な人は、こういう若者を見て勘違いして、部分的に昔に戻ることで「信頼」を取り戻せると錯覚しているのではないでしょうか。それに反発する「カシューナッツ炒め」的な若者が特殊なのであって、「チャーシューメン」的な若者は自分についてくると。実際に「チャーシューメン」の方が多いのかもしれないけど、そうだとしたらよりクラッシュが深刻なものになるのではないか。「チャーシューメン」はちょっとやそっとで動かないけど、動いたら恐いと思う。

「京都主義」的な人は「カシューナッツ炒め」だけを見て、それを倫理的な課題として考えたり戦争の戦力分析をしている。彼らの「カシューナッツ炒め」を説得するプランや騙すプランやおさえこむプランはそれなりによくできているし、彼らが「カシューナッツ炒め」を批判する論理も正しいのかもしれない。しかし、問題は本当にそこにあるのだろうかと私は心配しています。