「つくる会」批判をパ的に批判する

つくる会」と「朝日」の歴史観を比較すると、真偽の観点で言えば俺は「つくる会」に分があるような気がする。しかし、その動機と言論が社会に及ぼす結果については、とても支持できないものがある。

覚えたばかりの(だから使ってみたいの)哲学用語で言うとコンスタなんとか(しかし言いにくい言葉だ、しかも思い出せないし調べるのも面倒なので以下コ的)としては、「つくる会」と「朝日」には違いがあるが、パフォーマンスなんとか(以下パ的)としては同質の問題をかかえている。

つくる会」に対する批判をコ的に見れば、つまり、文脈から切り離して正しいか正しくないかのみを問うならば、全く正しい。

しかし、「つくる会」を批判しないで放置したら、あれがどこまで支持を集めるだろうか?コ的な「正しさ」のみを武器として大きな影響力を確保できるだろうか?つまり、若者は「つくる会」のパ的ないかがわしさを見抜けないだろうか?

つくる会」本人はもちろん、自分がそれだけの影響力を持ち得ると考えている。「つくる会」を批判する人は、この点において「つくる会」と意見が一致する。「あれを放置しておいて、あの歴史観が広まったら大変だ。多くの若者が騙されてしまう」そう思うから、労力をかけて(他の仕事を後回しにして)批判する。

これは「つくる会」を過大評価して若者を過小評価していることになる。つまりパ的に見ると「つくる会」批判者は「つくる会」自身と同じ間違いをしていることになる。若者たちはそんなことに騙されることができるほどのんきな位置にいないのだ。