体 = 身体性 + ドリームボディー

宮台・東対談〜『動物化するポストモダン』を読む〜から。


パターン認識の訓練だけで、「猫耳」でもいいし「シャネル」でもいいけど、ある記号を見た瞬間に勝手にドーパミンが出るようになってしまった消費者がいまや大量に存在している。それをどう扱ったらよいのか。これはいままでの社会は考えてきていない。スノッブな消費者は、記号的差異に対して意識的に反応していた。けれども動物化しデータベース化してしまった消費者は、記号的差異に身体的に反応してしまうわけですよ。これはやはり以前とは違うでしょう。

「記号的差異」とはまさに毎年繰り返されるハロプロシャッフルみたいなものだ。山口百恵のような物語を背負ったアイドルを高く見て、こういう記号的なアイドルを低く見るのがモダン。そのような物語への執着のむなしさを笑い、「あえて」ハロプロに熱中するのが、(第一世代)のポストモダン=スノッブな消費者。その「あえて」という間接性がなく、ダイレクトに提示された記号に反応するのが動物化した消費者。


ただ宮台さんと違うかもしれないのは、僕にとってそれは「あえて」というシニカルな選択ではないということですね。もっと切実に、現在の私たちには「まったり」しかないような気がする。

「まったり」とは、「ハロプロが毎年違うシャッフルを提供してくれるから、とりあえずそれで暇がつぶれるからまあいいかな」みたいな生き方。「切実」という言葉を使って「それしかないんだ」と言っている。

このような文脈で東浩紀が言っている身体性がミンデルの言うドリームボディと(表裏逆の)対になっているような気がする。

  一般人の言う体 = (東浩紀の剥き出しの身体性) + (ミンデルのドリームボディ)

ドリームボディーが無い無いというのが東浩紀で、あるあるというのがミンデル。東が宮台に「あんたたちが実は隠し持っているそれが俺たちには決定的に無いんだ」と言っているものがドリームボディなのかもしれない。