小熊英二と小田実の見分けがつかない
1987年生まれの人がこんな失礼なことを言っている(2003.2.6の欄)。小熊英二ファンにはカチンとくるひとことだろう。まだ一冊も読んでない小熊英二ファンである俺もカチンと来た。
よりよって小田実である。俺たち新人類世代(1960年前後の生まれ)にとって無責任さと厚顔さと鈍感さのカタマリのような団塊世代と一緒にされるほど嫌なことはない。こんなことを言われるくらいなら
わたしにはessaとはなわの区別がつかない(意味不明)
とでも言われた方がマシである。
しかし、なぜこの人は一番嫌なポイントを正確につくことができるのか?それはこの人が小熊英二の著作を正確に理解しているからだろう。その仕事が前の世代のそれと比較して、いかに深く問題に切りこんでいるのかわかっているのだろう。その違いをわかった上で「そんなもんでは全然追いつかない」と言っているのである。だから一番イジワルな「小田実」という悪口を書けるのである。
2.3の断片的な批判も痛烈だ。俺は肝心の批判対象を読んでないのだが、この批判が当たっていることはわかる。東浩紀を読んでいるからだ。
東浩紀は「動物化する世界の中で」のP150で、このギャップを
それは僕には関係のない話です。というか、「それは僕には関係のない話だ」と言わざるを得ない位置に、僕はいるのです。
と表現している。
これは怒りではない。怒りとは「大きな物語」の一部になることで、それを彼らの世代は喪失している。俺も喪失しているが、彼らはより深く喪失している。そういう「位置」に彼らはいるのだ。
俺たちは、こういうことを言う人をすぐ「特別だ」として無視したがる。そりゃ間違いなく二人とも特別頭がいい。しかし、彼らは頭がいいからそういうことを感じるのではない。彼らは頭がいいから、同世代みんなが共通に感じていることを言葉で表現できるのだ。言葉で表現できない一般の若者は他のかたちで表現する。彼らの言葉を手がかりに、この危機感を切迫感を圧迫感をもっともっと感じるべきだ。