記号も物語もなく単にひとりになる

物語が無いと言うより、物語がすぐに記号化されるというほうがわかりやすい。山口百恵のCDが再発されるが、名曲集でなくコンプリートモノとして発売されることがそのいい例かもしれない。「今のアイドルと違う本物の歌」を聞きたい人が、本気で「本物の歌」を求めるなら厳選したアンソロジーになるが、「本物の歌」というブランドを求めるからコンプリートものになる。

氷川きよしに対抗して本物の演歌歌手を出すとしたら、歌唱力ではなくて「イケメンでないこと」が重要なポイントだと思う。実は氷川きよしは相当歌がうまいのだが、彼より歌唱力では若干落ちる「本格派若手演歌歌手」がそのうち出てきそうな気がする。その新人歌手は「本格派」と呼ばれるが、歌唱力の違いでそう呼ばれるわけでなく「イケメンでない」ことでそう呼ばれるだろう。つまり「イケメンでない=本格派=NOT 氷川きよし」という記号をまとった歌手として売られることになる。

このような「記号化する力」は個人の中にあるのではない。それを言えば「物語を作る力」だって個人の中にあったわけではない。どちらも時代精神の力だ。以前は、時代精神として「物語化する力」が働いていたが、今は「記号化する力」が猛威をふるっている。

以前物語を消費しただけの人が、記号を消費するだけの人を非難したり説教したりするのは空しい。どちらも時代精神に安直にのっかっていただけのことだ。のっかる時代精神がちょっと違うだけで、結局同じことをしているからだ。

ひとりになることが必要なのだと思う。「ひとりになる」という物語を消費するのではなく、「ひとり系」という記号を消費するのでもなく、単にひとりになることが必要なのだと思う。